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答えのないノート(その2)いいものは必ず伝わるのか問題と言葉

いいものをちゃんとつくり続けたい。そんな生産者さんや職人さんの魂レベルの想いに対して「言葉」や「大きな意味でのデザイン」に何ができるのか。

前回のノート(note)

端的に言えば「いいもの」が手に取ってもらえる、買ってもらえる、使ってもらえる、誰かの暮らしや人生の一部になるために僕らにできることって何なのか。

そもそも、できると思ってるのは勝手な思い込みというか、思い上がりじゃないのかとも考える。

究極的なことを言えば、余計な言葉(コピー)やデザインでラッピングするより、「生み出されたもの」そのままのエネルギーというか存在感、無言の言を感じてもらえれば、それ以上のものは必要ないのだし。

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だけど現実問題として、仮にそうした「存在感」というかエネルギーを放つ「いいもの」が、突然、フリーダムに何の説明もなしに街の中に置かれていたとして、誰かが手に取るだろうか?

現代アート的なインスタレーションかな? ぐらいに思う人が少しはいて、立ち止まったりSNSに上げたりするかもしれない。だけど、それは本来の目的じゃない。

目にした人が「これ、ほしい」「使いたい」「食べたい」「自分の生活の中に置きたい」と思って何かアクションしてくれることが目的なのだ。

――のためには、やっぱり何か「言葉」や「大きな意味でのデザイン」が必要。いまのところは、だけど。

これは売ってるものだよ、こんな特徴があるよ、こんな人がこうやってつくり出してるよ、あなたの生活にこんな変化がありそうだよ。そんな「言葉」や「デザイン」がないと買うきっかけが生まれないし、リアルの場所でもそうじゃなくても「買っても大丈夫」「ここで買おう」につながるインタラクションやアーキテクチャが適切でないとアクションにはつながらない。

人は真っ暗闇の中で、ものを選んだり買ったりはしないのだ。

もしかしたら、この先、まったく想像もつかない次元というか概念の「何か」が発見されるとか開発されるかして、ある人が「いま、こういうのが気分」と感じた瞬間には、その気分に合うものがもう目の前にあるような未来がやってくるのかもしれない。

そうなれば「言葉」や「デザイン」は、また役割というか機能が変わってくると思う。生産者や職人さんが魂を込めた「いいもの」が、そのまま誰かに響いて、いろんなラグなしに届けられるのなら、少なくとも「言葉で伝える」はいらなくなる。

まあ、だけどそんな未来じゃなくても、本来はそんなものなのかもしれない。

「届けたい」人から、誰かに「届いた」ときには言葉はもうそっといなくなってるぐらいでいいのだ。

だとしたら「言葉」って何なのだろう。

(つづく)