生きるための情報の受け取り方
情報って何だろう。なんで、こんなに情報が多いんだろう。
人間が一生の間にメディアやデジタル機器から受け取って自分で処理できる情報量って、意外と少なくて一説では1TB(テラバイト)ぐらいと言われてる。
音楽1曲5MBなら20万曲。多いような気もするし、それだけなの? という気もする。
これは純粋に「生存していくため」に必要とする情報の話なのでゲームとかをすごくやってたら当然もっと情報の総量としては増えると思う。でも、処理するのはまた別の話。
なのにいまは、それよりはるかに多い情報が日々行き交ってるわけで、脳がうわぁーってなってもおかしくない。なってるかもしれないけど。
そもそも「生きていく」のに情報って本当にいるのか問題もある。
気候の変化、環境の異変、体調、まあ原始的にそういうのは大昔の人たちもきっと「感じ取って」生きてたはず。
ただ、情報という概念は持ってたかどうか。たぶん、もっと「感覚的」だったと思う。
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それでも大昔の人は生き延びてきたのがすごい。メディアなんてもちろんないし、いまの概念でいうテクノロジーも医療もない。生きるのに必要な便利なものは何もなかったのに。
いまより「情報」もなかった。もちろん現代の世の中とはあらゆる前提が異なりすぎてるので2020年のいまそれを真似できない。
情報を一切遮断して生きるわけにもいかない。じゃあどうするか。
現代のライフラインの情報を「そのまま」使わないというのもひとつ。
大昔の人が生き延びてきたように「感覚的」に使うのだ。情報のまま受け取って踊らされるのじゃなく、いったん情報を「自分の感覚」に変換して。
自分の感覚というのは「生物レベル」のプリミティブ(原始的)な感覚。脳科学とかの研究では、本当は頭で考えるより早く身体感覚のほうが先に動いてるとも言うけど、そこに情報を落す。
まあ、簡単じゃないんだけど変に「情報」として受け取り過ぎて処理できなくて結局大事なことをこぼしていくぐらいなら、身体感覚として情報を受け取りたい。
そうすることでこのnoteやTwitterとかのソーシャルメディアも本当の意味で生命線になるんだと思う。