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僕が美術館で転んでも世界は変わらないから

土曜日だし、ほんとにどうでもいいこと。いつもそうじゃないのかと言われたら、まあそうかもしれない。

その日は名古屋で仕事があって、その日のうちに横浜まで移動しないといけなかった。次の日、朝から横浜で取材が入ってたからだ。

ミーティングが少し長引いて、新幹線の時間まで1時間と少し。ふつうに考えれば名古屋駅に移動したほうがいい。しかも、その日持っていたチケットはEX予約と違って変更ができないタイプのものだ。

僕は地下鉄の駅に向かいながら思った。よし、美術館行こう。

アホなのか? 1時間しかないのに美術館に行くってどうかしてる。乗り遅れたらいろいろ面倒くさいのに。

わかってる。でも、どうしても5分でいいから会いたい絵があった。そのためだけに足を運んでも自分の中では意味があったのだ。


向かったのは栄にある愛知県美術館。たまたま、仕事先から名古屋駅までの移動経路の途中、名城線から東山線に乗り換えるのが栄で、美術館は駅からがんばれば5分くらいで行ける。

超駆け足でスーツケースを引きずりながら、美術館の入っている愛知芸術文化センターの建物を目指す。隣のオアシス21の芝生を横目に、ソフトクリーム食べながら転がったら気持ちよさそうだよなと妄想しながら。

会いたかった絵はちゃんと待ってくれていた。当たり前。

大沢鉦一郎さんの《大曽根風景》(1919)。今回の企画展『アイチアートクロニクル1919-2019』の起点といえる、当時の愛知の若手洋画グループ「愛美社」を立ち上げた大沢鉦一郎さんの絵だ。

控えめに言っても、入り口からここまで思った以上に後ろ髪を引かれる絵がいろいろあって、駆け足で来る企画じゃないよなと脳内クレームを無視しながら、ほぼ一目散に《大曽根風景》の前に来たのだ。

        ***

絵の前に立つと100年前の何でもない風景から風が吹いていた。

誰かにすごく愛されたというのでもない、名前のない風景。だからかもしれない。その、どこにも属さない、やがて開発されて消えて行くどこでもない自然が持つ生々しさがその絵には広がっていた。

ああ、この原風景、来たことがある。この時間、感じたことある。日本語が崩壊してるし、ライターとしての資質を問われそうだけど、僕の中でそんな声がした。

不意に涙がこみあげそうになる。どこかで失いたくなかった時間が目の前にあることに。そして、その時間はもう絵の中にしかないことにも。

気がつくと何分も経っていた。新幹線――。僕は静かに絵に別れを告げる。また来るかもしれないし、来れないかもしれない。

駆け足で、駅に通じる地下通路を目指しながら僕は転びそうになる。僕が転んでも転ばなくても世界は何も変わらない。

それでも、あの絵の前で過ごした僅かな時間はずっと消えずにあればそれでいいと思った。