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不安なときほど「自分のためだけ」をするといいと思う

不安になることないの? 最近よく聞かれる。

たぶん、周りからあまり不安そうに思われてないんだろう。もう少し不安そうにしたほうがいいんだろうかと逆に不安になる。ならないけど。

そもそもなんだけど「不安」っていうのが、僕自身よくわかってない。いや、意味はわかるよ。この先どうなるんだろうとか、もしこんなことになったらどうしようとかだよね。

みんなが言ってることもわかる。手に負えなさそうなことが自分に迫ってきてるのに、先がわからない状況に対して不安になるのは自然現象だと思う。

もちろん僕だって、こりゃわかんねぇな、さてどうしてものかってなることあります。

なんだけど、じゃあそれが「不安」かというとそれも自分の中では違う気がしてる。

もしも、自分の意思とか身体、行動が完全に自分でアンコントローラブルになって(制限されるとも違って制御不可能)それなのに自分の意識だけはクリアだったら「怖い」とは思う。

けど、そんな状況というか状態になることはまずなくて。

いまだって、三次元的にはいろいろ制限もかかってきたり、いつも以上に気を遣わなくちゃいけない場面も増えてる。それでも、完全に自分の意識(何を想うか)だとか思考(何をどう考えるか)だとかまでアンコントローラブルになったわけじゃない。

まだ何かできることは残されてる。いまに限らずだけど。基本的に僕はだいたいどんな状況でもそう思ってる。そう思おうって意識してるわけでもなくて。

自分で何か選んで自分の身体を使って行動して(外に出るってだけでなく、何次元でも)何か自分でつくれてる限りはそんなに不安ってない。自分で自分をちゃんと使えてるっていうことが感じられてるのが大事。

だからくっそ忙しくても畑をやったりするんだけど。

言語化すると誤解を生むかもしれないけど、そういう「何かする」は純粋に自分のためにだけやればいい。むしろそのほうがいいと思ってる。

誰かの役になんか立とうとしなくてもいい。自分がそれで癒されたり、自分の気持ちが自給できればそれだけで収穫だと思う。

で、結果的にそうやって「自分のために使う」「自分のためにつくる」をちゃんとやれてるほうが「誰かのために」もできるから。

不安なとき、不安な人ほど実は「自分のためだけ」がやれてなかったりするからほんと。僕だってそう。

純粋に自分のためのことが減ってきたら不安までいかなくても消耗する。身体と意識や思考って結構連動してるから、意識が消耗してきたら身体も鈍くなるし思考もぜんぜんうまくいかない。ぜんぶ、つながってるんだよな。

だからフィジカルなことで純粋に自分のために「好きなこと」がある人は、そこにちょっと時間を使ってもいいし、難しくても「そのこと」を考えるだけでも気持ちが自給できる。

「書くこと」が純粋に自分のためになるならそれやればいい。誰かの役に立とうとかひとまず置いて、自分のために書く。

どんな小さなことでもいいんだから、やってみたらどうかな。自分のためのご自愛行動を。