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細胞レベルで読みたくなるかならないか

すごく久しぶりに新聞の論説を読んだ。たまたま自分に関係あるテーマが目に入ったからだ。

結論から言えば、わかってたけどやっぱりびっくりした。あまりの入ってこなさに。

いまって、noteを使ってるというか読んでる人の中で、紙でもデジタルでもニュースメディアじゃなくて「新聞」いう媒体を日常的に読んでる人ってどれぐらいなんだろう?

クロス集計されたピンポイントなデータは手元にないけど、総務省が毎年行ってる『情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査(平成30年版)』だと「紙の新聞」の利用率(読んでる率)は調査全年代で50.7%。

この数字だけ見ると、まあまあいることになる。

たぶんnoteのコアユーザー層と思われる30代に限ると31.9%。3人に1人は読んでる? そんなに読んでるのかな。世帯の家族構成にもよるかもしれないけど。2世代、3世代で暮らしてたら親世代が新聞購読してる率は高いから。60代では「紙の新聞」の利用率は81.9%もある。

もちろん、紙の新聞しかニュースソースとして読まない見ない人は少なくて、50代以下ではポータルサイトのニュース配信(Yahoo!ニュースとか)、ソーシャルメディアのニュース配信(LINE NEWSとか)のほうが利用率は高い。

という前提があるとはいえ、新聞の「論説」になると、さすがにさらに読んでる人は少ないんだろうな。

僕だって、ふだん新聞の論説を読むことはまずない。

今回読もうとしたやつも、内容を取り上げるといろいろめんどくさいのであれだけど、端的に読めなかった。いや、日本語の文章として何も間違いはないし、文章そのものは破綻してないのだけど読めない。

自分の読む脳がバグったのかもと思って読み直してみたけど無理だった。自分に関係あるテーマのはずなのにどう読もうとしても「入ってこない」のだ。

こんなに入ってこない文章ってあるんだな。

いわゆる新聞の論説構文なのはわかる。だから読めない。なんだろう。そういう人たちがそういうのを好む人たちに向けて書いてるのだろうけど、それでいいんだろうか。

このテーマでこの内容で、この筆致で「本当に読まれるだろうか」「読んだ人の中でどういう思考や感情の動きがあるだろうか」というのを一切、想像してない文章に読めてしまう。

高説を垂れてる文章を今の人たちが、わざわざ読みたいとは思わない。自分が生きる中で摂取しておきたい要素が何も感じられないのだ。

So What? Why So? という言葉が読んだあとしばらくふわふわ漂っていた。

たぶん、どんな文章にしてもどうせ読むなら「生きるために読みたい」というか、どこかフィジカルな文章を求めてるんだと思う。そうでなければ、ただでさえ可処分時間の奪い合いの中で、わざわざ「文章」を読む必要性がない。

まあ、べつに読めないものを読まなければいいだけの話なんだけど、やっぱり文章(とくにメディアの)って、細胞レベルで動くほうがいいなと思ったので自戒をこめて。