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巣を背負って歩く

あいさつするとき背中がもぞもぞする。どこかで誰かとすれ違う。大人なので、日本人的に少しだけ会釈の姿勢になる。あ、どうも。

あ、どうもの姿勢でかさこそと音がする。巣を背負っているので仕方ないのだけど、慣れない。なんとなく会釈と一緒に巣が傾いでばらばらになりそうな気がしてしまう。

今回の騒動があって、みんな巣ごもりをすることになった。これまで「会社の巣」にいる時間のほうが長かった人たちも、自分の巣に戻ることになった。

ようやく本来の巣に戻った気持ちになった人もいれば、自分の巣のはずなのに落ち着けなかった人もいる。巣での過ごし方に戸惑ったり、カオスだったり。まあ、いろいろだ。

もしかしたら「価値」とか「役割」でずっと生きてきた人ほど、巣ごもりに違和感を持ったのかもしれない。人によるけど。

なぜなら「巣」は、もっと根源的な部分で「生」を明日につないでいく場所だから。それは価値とか役割なんてもの以前のところで、生きるものを温める。

巣は基本的に自分の親密なもの、本当に大事なもののためにつくる。だから、そんなにたくさんのものが巣には入らないんだ。

いや、わからない。もしかしたらたくさんのものを巣で大事にしたり、親密になれるよって人もいるかもしれない。だからあくまで主語は大きくしないで、僕の場合はという話。

巣ごもりをしていると、自分の巣を否応なく意識させられる。で、思ったことがあって。自分の巣って、そんなに大きくはないんだ。

自分の居場所を意識して広げたり狭めたりもせずに、自然にじっとしてる時間。外に出れなくて自分の身のまわりにあるものを見つめる。

いろいろ制限はあるけど自分にはこれがある。有機物も無機物も含めてそう再確認した時間。

なんだろう。それは誰のためでもなく純粋に自分にとって失いたくないもの。守りたいもの。

そしてもっと怖いことには、自分にとって失いたくないもの、守りたいものを「自分が意図せず」損なってしまう可能性もあるということ。これまでも、これからも。

あるいは逆に、自分が失いたくないもの、守りたいものにコミットしたことで自分も何かを損なうことになるかもしれない。

それでも、相手のために自分のために心から行動できる存在は、ひと言でいえば「深い」。

深く知って深く愛している。同じものはどこにもない。大事じゃないけど大事な何か。形而上のものであれ形而下のものであれ、自分の巣にはそれしかないんだなと思った。

巣ごもりから少しだけ外に出る日々になったけれど、やっぱり僕は巣を背負って歩いてる気がする。ただそれだけの、まとまりもない話。