自分の殻を持ってる人が好きな話
突然だけど、あなたの殻を見せてくださいと言われたら、あなたはどうするだろうか。
殻? コノヒトハ ナニヲイッテルノダロウという困惑が目に浮かぶ。
脱皮ということですか? 親切な人なら少し連想を働かせて、そんなふうに聞いてくれるかもしれない。
もしかしたら、どこからか「これ、ですよね?」と、仕舞ってあった自分の抜け殻を引っ張り出してきて見せてくれる人だっているかもしれない。
だけど、ちょっと違うんだ。殻はあくまで殻だから脱ぎ捨てたりしない。自分の一部としてずっとある。もちろん個体差があるから、人によっては、本当に甲殻類の殻みたいに見た目にも「殻」とわかるのもあるし、ほとんど透明で見分けがつかない人もいる。
しかもややこしいのは、この殻は「概念としての殻」でもあるのだ。
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いま、ひとり読者が減った気もするけど続ける。概念の殻のわかりやすい例はこういうものだ。
あいつは自分の殻に閉じ籠ってばかりだな。これは殻を破るチャンスだからがんばれよ。とかなんとか。
そうなのだ。概念としての殻も概してネガティブな扱いをされる。
殻にこもるのは、自分の狭い世界から出ようとしない、外部との接触を拒むイメージだし、殻を破れないのも実力がまだ足りないとか、世間一般で評価されるところまで到達できてない、何かを覆せないことを表す。
殻の扱いが散々だ。
だけど僕は個人的に(ほとんどのことは個人的だけど)誰かの殻が好きだ。むしろ殻をちゃんと見たい。殻を持ってる人のほうがいいなと思ってしまう。
なぜなら「殻」こそが、その人の「ブレない何か」「自分でも目を逸らせられない何か」を表してるように見えるから。極端に言えば、殻はその人自身でもあると思う。
なのに、なぜか「殻」はないほうがいい扱いをされがち。
狭くても自分の世界を持ってるほうがいいし、やたら何でも外と接触しなくても自分の中の宇宙を歩くのに忙しくてもいいし、世間の評価とズレてたってブレずに何かを完成させればいい。
それを「殻」だから壊さないといけないとか、そこにとどまってるべきではないとか周りはいろいろ言う。
でも、本当にそうなのかな。殻って良くないものなんだろうか。
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逆に殻なんてないふりをして、あるいは捨て去って、器用に世の中をつかまえてる人も「すごいな」と思うけど、そういう人って「その人」がなかなか見えないんだ。
ないことになってる、どこかに置いていかれた「殻」のほうに、むしろ「その人」があったりする。
僕は個人的にそんな「殻」と話したい。だからなんだってこともないのだけど、ただ好きなんだ。殻を持つ人とその殻と話す時間が。
殻は自然に部分的に破れることもあるけど、無理に捨てなくてもいいと思う。それに、書く人にとっては自分の殻こそが書くときの核にもなるから。そんな「殻」の話。