ちゃんとした孤独を持つこと
「ふみぐらさんも孤独をちゃんと持ってますね」
正確には覚えてないのだけど、この前そんな感じのことをある人に言ってもらえてうれしかった。
孤独がうれしいって変に思われるかもしれない。そうだよね。世の中的には「孤独」はネガティブに扱われがちだから。
だけど、なんだろう。この場合の「孤独を持ってる」は、なんていうかもっとフラットなものだと思う。孤独は個性みたいな無理のあるネガポジ変換じゃなく、良くも悪くもなく「その人の大事な何か」としてのもの。
もっと言えば、自分が自分である所以。ブレない自分がある場所。
これもまたなかなかわかってもらい辛いのだけど、東京暮らしのときより、そういう「ちゃんとした孤独」が自分でもわかるようになった。
いや、東京でだってちゃんとした孤独を持ってる人もいると思う。僕の場合は東京では孤独の輪郭がぼやけていた。
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里山暮らしのいいところは、ちゃんと孤独になれるところなんだ。
と言ったら、これもきょとんとした顔をされそうだ。あ、里山っていうのがイメージしづらい人もいるかもしれない。
厳密な定義もあるようなないようなだけど、一応、環境省ではこんなふうに説明している。
原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域です。農林業などに伴うさまざま人間の働きかけを通じて環境が形成・維持されてきました。
うん。お役所らしい説明だけどそのとおりだなと思う。
なんていうか自然界と人間界の“際”みたいなところ。それだけじゃなく、もののけたちの気配を感じながら人間が暮らす場所。
で、その里山と呼ばれる中でもうちなんかは山を背負ってる感じの、まあまあ「里」より「山」感が濃いエリアになる。
そんな環境に移り住んだものだから、最初のころはよく人から「淋しくないんですか?」と聞かれた。
この場合の「淋しくないんですか?」は、単純に人間が少ない、街というか都市ではない、イベントだとか刺激的な空気が少ないとかそういうのだと思う。まあ、それはそのとおりなんだけど。
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じゃあ、そういう人やモノや刺激の少なさが「孤独」なのかというとそうではない。
人や建物、都市の息づかいみたいなのが少ないと、それだけでなんだか淋しい=孤独感みたいなイメージを持たれることもある。僕も昔はなんとなくそんなふうに思ってたかもしれない。
だけど実際に人よりも獣や鳥、虫たちのほうが多い環境に移り住んでみると、むしろ逆だなと思うようになったのだ。こっちって、そんなに孤独じゃない。
自分も単純に生物なんだなというのを感じることが増えて、それが妙にすっと入ってくるのだ。生物としてのつながり感があるというか。
もしかしたら都会暮らしをしてたときのほうが、人とも自然ともちゃんとつながれてない奇妙な孤独感が街にも漂ってたんじゃないか。
24時間誰かの気配がするし、深夜でも街のノイズが聴こえてくるし、あたり前だけど人がたくさんいて店もモノもたくさん並んでいる。なのに、なぜ?
もちろん、だからこその都会暮らしの「味わい」はあるし、それはそれで僕も嫌いじゃなかった。のだけど、心のどこかで落ちつかない孤独を味わってたんだ。
その孤独の正体は「ちゃんと孤独になれない」ことだったのかもしれない。