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いろいろわかってないほうを選んでる

それなりに生きてきて、こんなことも知らないんだよなと自分に愕然とするときがある。わりとよくある。しょっちゅうある。

というか知らないことだらけだ。頭の中は結構パンパンな感じだけど、たぶんそのほとんどはどうでもいいもので埋まっている。その周りを「知らないこと」たちが入る隙間を探してうろうろしてるのだ。

この前は「中落ち」がわからなかった。

いや、イメージとしては認識してる。ほら、あれでしょ。鮪(まぐろ)の中落ち。なんか、いかにもお刺身というかたちに成形されてない赤身っぽいやつ。ネギトロとも違う。

じゃあ、具体的に中落ちがどんな部位のどんな味わいなのかよくわかってない。なぜ「中落ち」と呼ぶのかも。

きっとみんなはわかってるんだと思う。

とあるお店で《ランチ まぐろ中落ち定食 800円》とホワイトボードに書かれてるのを見て悩んだ。

なんとなく「魚」が食べたい気分だった。そのお店はべつに魚料理の店ではないのだけど、わりとメニューにはいろいろ魚料理のランチが並んでる。

まぐろ中落ち。もしかしたら、いや、たぶん食べたことはある。それが中落ちだとは認識しないまま。居酒屋なんかで《まぐろ4種盛り》みたいなのを頼んで、その中に入ってるのをきっと食べてるはず。

そういうときって、これが中落ちなんだなと思って食べる意識が抜けてる。ポンコツだ。

そして、ちゃんと認識して味わって食べたこともないのに、なんとなく「まぐろ中落ちっておいしそう」の勝手なイメージができあがってる。

いままでちゃんと食べてないことの言い訳として「おいしいものだから、いつか食べようとタイミングがくるのを待ってる」と自分に言い聞かせる。認知的不協和。すっぱい葡萄の逆バージョン。

で、そのタイミングが目の前の《ランチ まぐろ中落ち定食 800円》にあるのかどうかだ。

ただ、ここで微かなセンサーが作動する。本来、まぐろ中落ちってちゃんとまぐろ料理をメニューで出してる店で食べるものなんじゃないのか。

そう考えると、べつにここで絶対食べないといけないものでもないような気がしてくる。イメージの力に引っ張られるのは、なにか違う。

それに出てくるのが本当に、まぐろ中落ちかどうかもわからない。そんな変な店ではなさそうなのだけど、なにしろ自分がよくわかってないのだ。

結局、その日は《無難な魚塩焼き定食 780円》にした。金額差がわずか20円というのも少し謎。

まあでも、よく考えてみればよくわかってないものなんて食べものでも他にもたくさんある。

だからって、何かで積極的に調べて(仕事ではするけど)ちゃんとわかってから食べてみるというのもたぶんしない。

そのうち、本当にタイミングが合って、わかってないけど「あ、これが中落ちなんだ」とわかるときが来ると思ってる。

前知識もないのにわかってもないのに、なぜか「これだ」ってわかる瞬間。そういう人生のほうが、なんとなく自分に合ってる気がする。まあ、どうでもいい話だ。