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フラットな罪

デジタルの世界になって(この言い方も微妙だけど)いろんなものがフラットになった。

ものを書いたり何かを発信したり、共感を得て何かを始めたり。そういうのが、すごくざっくり言えば「誰でも」できる。

まだデジタルじゃなかった世界では、そうはいかないことが多かったのだけど。

もちろん基本的にフラットな世界はいいことだと思う。無駄に障壁ばかりある世界よりも。

ただ、フラットだから「誰でもどこにでも持っていける」ものが転がってることもある。歳月に裏打ちされた根っこがないというか。

フラットではなくデジタルじゃない世界で結果的に生き残る、認められるものはそんなわけにはいかない。その人が書いてること、発信してること、行動どれもが積み重なって「ああ」と思えるものでないと存在が難しかった。

なんだろう。いまより、もっと「人としてどうか」を深く見られてた気がする。

そういうふうに書くと、非デジタルな世界のほうがいいみたいに聞こえるけどそうではない。

障壁はいつの間にか権威性みたいなものを纏いやすいし、そんなのは人を幸せにしない。

でも、あまりにも「人としてどうか」の根っこがないフラットさばかりになるのもどうなんだろう。短い戯言。