見出し画像

8分20秒前のおわりに

最初におわりのことを考えてしまう。子どもの頃からいつもそうだった。

遊園地に行く。海で遊ぶ。子どもにとっては、その時間を想像しただけで行く前からテンションが妙な上がり方をするはずの予定が待ってても、僕はそこまでじゃなかった。

どんな時間もいつかおわる。永遠なんてない。誰に教えられたわけでもないけど、いつもそれが頭にあった。

子どもらしくないと言えば子どもらしくない。世の中一般的に、子どもと言えば先のことなんて考えることもなく、ただそのときの楽しみに呆けるものだからだ。

たぶん、そんな感覚が顔にも出ていたんだと思う。周りの大人からは「楽しくないの?」と訝しく思われたり、終わりのことを考えてるようなそれっぽいことを口にしたときには「みんな楽しんでるのに、そんなこと言うものじゃない」と窘められたりもした。

そりゃそうだ。大変申し訳ない。

いまならもう少し説明できるのだけど、べつに何に対しても醒めてたり斜めに見てたわけじゃない。楽しむ気持ちもなかったわけじゃなかった。ただ。

楽しいの並行世界に「おわりの世界」がいつも自然にあっただけなんだ。それを淋しいとか悲しいと感じるのでもなく、ただ「在る」のだなと。

子どもなりに、いま「在る」ものと、それの「おわり」が同時に「在る」のはふしぎだったし、自然なことだった。たぶん、伝わらない。

もちろん、何にも夢中にならなかったわけじゃない。子どもの頃住んでいた団地には緑地があって、その緑地に穴を掘ることが好きだった。

どこで調達したのかは忘れたけど、まあまあ大きなシャベルなのかスコップなのかを使って、無心に穴を掘る。最初はとくに何の変化も起こらず、ただ土がえぐれてるだけだったのが、粘土質の土に変わり、少しずつ穴の気配がじとっとしてくるのがわかる。

水がじわりと土の中から滲み出てくる。大人になったいまなら、地下水位が高いのだと理屈でわかるけれど子どもにはそんなことはわからない。

ただ土の中から水が出てくるのを、そのままぼんやりと眺めていた。自分の足元がだんだん浸蝕されていく。

自分がだんだん過去という未来に押し流されていくような感覚。

掘った穴をどうしたのかは覚えていない。たぶん、暗くなるまで土の中の水を眺めていたからそのままにしていたかもしれない。

緑地とはいえ、みんなが利用する公共の場所に穴を掘ってそのままにしていたのはよろしくない。謝罪案件だ。

よくわからない穴を見つけた緑地の管理者は、何を思っただろう。穴の中の水に映った歪んだ太陽を見て顔をしかめたぐらいで何も思わなかったが正解だろう。

8分20秒前の太陽に「おわり」の文字が刻まれていたのにも気づかずに。