君のシチューは僕を襲う
冬の夜。
家路を急いでると、どこからともなく鼻孔をくすぐられる匂いがつきまとってくる。ひとさじの希望。しんとした空に昇っていくやわらかな気配。
シチューだ。
僕が考えるよりも早く、僕の中の誰かが声をあげる。
とくにシチューだけが好きというわけでもないのに、冬の家路のシチューは僕を襲う。
僕はなるべくシチューのことなんて考えずに、自分の部屋を目指そうとする。だけど、シチュー。
お腹の底のほうからスプーンをかちゃかちゃ鳴らす音が食道を通って聞こえてくる。
あれは、よその家のシチューで僕のシチューではない。わかってる。なのに、僕の口はシチューの口になる。
*
あたまの中にぼんやりと黄色いもやがかかる。
もやの向こうで、なつかしい山崎まさよしがギターを抱えて唄っている。知らない団らんの灯りとやさしく湯気を昇らせる白いお皿。
もうだめだ。僕はシチューが待つ知らない誰かの家の玄関へと向かう。
ピンポンを押そうとしたとき、軒先に小さな雪だるま。
ハッとして空を見上げると、松坂桃李が少し困り顔で笑っている。
僕は我に返る。そうだ。いまは2020年の冬。もう山崎まさよしはシチューのCMで唄ってない。
届かない愛は凍てついた空の向こうに消え、地上は届く愛で溢れている。
帰り道。すっかり悴んだあたまの中で、あの小さな雪だるまをシチューに浮かべてみる。
※昔のnoteのリライト再放送です