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もう文章を書かない

いきなり何を言ってるんだ。僕もそう思う。

そもそも、じゃあこうやって書いてる文章はどうなんだという話だ。たぶん、こういうのは「文章」でもないし「文章でもない文章」でもない。

またちょっとわからないこと言ってるけど、そんなに変なところに連れていかないのでよければもう少しだけ。

冒頭で「もう文章を書かない」と言ったのには、いろんな要素が含まれている。

いわゆる「文章のための文章」を書いても仕方ないとか。それは、説明のための説明とも似ている。相手が説明を求めてるから説明をする。それ以上でもそれ以下でもない。説明はしましたよ、以上。

そこには、相手が「なぜ、どんな想いがあって」説明を求めてるのかに寄り添う気持ちもないし、「何かが伝わってる」とか、そんなこと知ったことじゃない。

政治の世界なんかではよくそういう場面があるし、案外、身近なところにだってある。誰かに何かを説明してもらって「気にしてるのはそこじゃないんだけどな」って経験は誰でも一度はしたことあると思う。

たいてい、そういうときは説明する側も悪気はなくて「説明したから自分の役割は果たした」ぐらいに思ってる。

で、文章だ。

文章にも誰かと誰かの間で書かれるもの(このnoteだってそうだけど)には、何かの役割がある。完全にクローズドな鍵のかかった自分しか絶対に読まないもの以外は。

何かを伝える。何かを確認する。何かを共有する。何かを表明する。言語化されてないものを表現する。気持ちを昂らせる。穏やかな気持ちになる。誰かをどこかへ連れて行く。あるいは一緒に新しい場所に行く。

あげていくと、いくらでもあるけど文章にはそういう役割というか、機能がある。

もちろん、通常の文脈ではいろんな役割、機能をちゃんと果たす文章を書かないといけない。それも時と場合に応じて「速さ」だったり「正確さ」だったり「情緒性」だったりも兼ね備えて。

基本的にはそういう「文章」が書ければ問題ない。何かしら相手に文章を通してベネフィット(得られてうれしいもの)をもたらしてるから。

「文章のための文章」はそれがない。自分が一方的に書いてそこで閉じてる。

じゃあ、読む人が何か得られてうれしいもの、求められる機能を果たしてる文章を書いてればそれでいいじゃんという話なんだけど、僕はもうその先に生きたい。

誤字じゃなくベネフィットのある文章の「その先に生きたい」んだ。

文章、テキストという形態をまとってはいるけれど、人間そのものがちゃんとそこにいる世界。「自分」と「まだ出会ってない自分」、「あなた」と「まだ出会ってないあなた」がフラットに対話しながら歩ける世界。

そこに旅するために文章を書いて読む。

そして、この「文章ではない文章」は僕の文章上の、というより文章を超えたところでもつながることができる、ある人の存在が書かせてくれた。

もちろん、その人は僕がそんなふうに言っても否定も肯定もせず、ただ黙ってうなづいて笑ってるだけだなのだけど、それはどんな言葉や文章より豊かだなと思ってる。