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アホな経験で文章がうまくなるのか

いまから思えばアホだった。硝子の少年時代。たぶんこの表現通じないな。

あ、「アホ」という表現というか言葉も人によって受け取り方が違うと思う。

大阪弁関西弁ワールドの「アホちゃう」「アホほど~する(めちゃくちゃたくさんの意味)」のニュアンスが伝わると「アホだった」もなんとなく伝わるんだけど。

なんだろう。どこか自分を突き放して客観視したときの「アホさ」みたいなもの。

自分で自分を「アホやなぁ」と見れてるから、それが仮に第三者に向けられた「アホちゃう?」としても、そこまで真剣なアホ事案ではないことが伝わる。

いわゆる「ほんまもん」のアホだと、そういうわけにはいかない。

まあ、なかなかそこの境目というかボーダーって難しいんだけど。

で、なんでこんなアホアホ言ってるのか。自分の若かりし頃を振り返ると、そこには数々のアホな経験が燦然とそびえ立ってる。ちょっと昔のネットスラングで言えば黒歴史にも近い。

アホな経験とは文字通りで、しなくてもいい経験とか、いまから思えば「なんで?」と思うような経験。それをしかも自主的にやってるから頭がおかしい。

いまでこそ、なんとか少しはまともなヤギとして人生を食んでいるけど、昔はそうとも言えなかった。もちろん社会人(この言葉も違和感あるなと思いながら使ってる)になってからは、仕事は真面目にやってたよ。

けど、何者でもない時代はほんとアホだった。

何の肉を食べさせてるのかよくわからない路地裏の居酒屋で、謎肉(リアルなやつ)を食べて、人生で一度だけ駅でリバースしたこともある。

その店は学生とか若い子は、お金がないだろうという店主の親切心(なんだろうか)で、普通の牛肉とか豚肉ではない「なんだかよくわからない肉」を料理してくれるので僕ら界隈では有名だった。しかも異常にお会計が安い。

うわさでは「サルの肉(一応、合法らしい)」だとか、名前を出すのも憚られるような肉の名前も飛び交ってたけど、僕らにはどうでもよくて、とにかく肉が食べれて楽しく飲めればよかったのだ。いまなら「やめとけ」ってなる。

ほかにも、とても書けないようなしなくてもいいアホなことをしてきたけれど、べつに昔語りとかがしたいわけじゃない。

じゃあ、なんなのか。

文章を書いて生きていくようになって、案外、そういうアホな経験が自分の文章の「匂い」とか「気配」をつくってくれてる気がする。

文章そのものをつくってくれてるわけじゃない。アホな経験で文章、それも周りのまともな空気を引っこ抜いて読ませる文章を書けるのは、伝説の天才、中島らもさんレベルじゃないと無理だ。僕なんかが到底太刀打ちできない。

でも、アホな経験で文章そのものを昇華させることはできなくても、なにか自分の匂いや気配ぐらいは文章で感じさせることはできる。

謎肉が焼けるどこの国でもない匂い、真夜中の大教室に響きわたるピアノの高揚感とどこにもたどり着かない切なさ。

それは文章がうまいとかではなく、ある種の人によっては好き嫌いのある匂いに誘われるドリアンみたいなものかもしれない。鼻をそむける人もいるし、なぜかわからないけど惹きつけられる人もいる。

案外、そういう「ようわからん」成分が自分の文章を支えてくれてる気がする。という雑文。