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書ける人には何があるのか

いわゆる「この人、文才あるかも」って思う人。編集者目線での話。個人的な目線だけど。

文才とは何かの明確な定義はあるようでない。

ひと言で言えば文章を書く能力の中で「何かある」。なのだけど、それだとそこで話が終わってしまう。

もう少し掘っていくと、いくつかの「引っ掛かり」みたいなものがある。

書いてる人のほうは「文才あります!」「書きたいんです」とかすごいアピってないのに、勝手にこっち(読む側)に飛び込んでくるのもひとつ。

なんなら、本人はべつに自分は書ける人だとかあんまり思ってなかったりする。読むのも書くのも好きだけど。

変な言い方をすると、外に芽を出してるんじゃなくて自分の中に芽を持ってる。

周りに自分の文章をよく見せようとか、ファンを増やそうとかそういう外に芽を出そうみたいなことをあまりしてない。

ここで、いきなり野菜とかの話になる。

野菜の芽も、まだ自分の土が浅いのに無理無理、外に出よう早く育とうとして芽を出していくと、ひょろっとしたいわゆる「もやし」みたいな芽になる。

底の深いプランターに土が少ししか入ってない状態で芽を伸ばそうとすると、光が当たらないから太陽の光りに届きたくてそうなってしまう。

ちなみに、もやしってあの大豆のもやし以外でもそうなる。かぼちゃとか。

じゃなくて、自分の土を育てて土が深い状態で芽を出すと、太くって強い芽になる。土がプランターの上のほうまであるから、無理せず自然に太陽の光も当たる。

書ける人も同じようなとこがあるなと思う。たぶん何言ってるかわからないんだけど。

書ける人は無理してない。自分の芽をとにかく誰かに光を当ててもらいたくて変なふうになってない。

もやしみたいなひょろい芽というか苗を植えても、ほとんどはうまく育たない。

むしろ、見た目は派手じゃなくて目立たなくて、ずんぐりした苗のほうが育ち始めてから強い。おいしい実をつける。

ずんぐりした文章というと語弊があるかもだけど、書ける人の文章は背伸びしてないし、変に整えようとしてない。

あと、自分大好きじゃなく(それもあっていいんだけど)他の人の才能も好きって人。言い換えたら、いろんなものを「ちゃんと見れる」人。書ける人、文才あるなって思わせる人は他人の文章も「ちゃんと読む力」を内包してる。

言語矛盾あるいは形容矛盾だけど自分も読者も突き放して、それでも「読みたい」と思わせる文章を書けるかどうか。

そこは、やっぱり自分の中にどれだけちゃんとした「芽」を育ててるかだと思うんだ。