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空中バナナと向き合いたい

自分があほではないかと思うことがある。短い戯言。

この場合の「あほ」は、どうでもいいことを大事にしすぎて、ときどきおかしなことになってしまうのを指す。

自分自身、仕事の文脈を除けばだいたいどうでもいいことで出来ている。と思う。詳しく自分をスキャンしたことはないのでどれぐらいの割合か正確にはわからないけど。

自分の中の「どうでもいいことリスト」は山のように積み上がっていて、きっと一生そこに費やしても消化しきれない。

いろんな街の匂いを言語化してみたいとか、そういう類のやつ。いや、これはたとえばだし、ある側面からはどうでもよくなくて実用的ですらある。実際、海外には「街の匂いを視覚化した」地図(スメリーマップ)もあるし。

本当に僕の頭の中に漂ってる「どうでもいいこと」は、なかなか言語化が難しいのも多い。土の言葉を聞き分けるとかね。

なんで、こんなにどうでもいいことを集めてしまう人生なのか。

自分でも集めてる意識はそんなになくて、気が付いたらこんなに、、というのが実感に近い。

空中に静止したバナナもそうだ。

ほとんどの人はバナナがどう置かれるべきかについて、そこまで考えない。そんなことよりもっと他にやるべきことも、考えないといけないこともたくさんあるから。

だけど考えてしまう。すごく個人的な感覚だけどバナナは空中に静止した状態がいちばん好きだ。使い古された表現をすれば映える。

問題は、バナナを空中に静止させるのにぴったりの用具(何ジャンルなんだろうか)がなかなかないことだ。これもかなりどうでもいい。バナナは剥いて食べるか滑るものだ。空中に静止させなくてもいい。

でも、あればいいなと思ってしまう。だけど見つからない。こんなにたくさんのものがあふれてるというのに。

仕方ないから最近は、概念としての空中バナナでなんとかしている。ただ、困ったことに概念の空中バナナは重力に負けてしまうのだ。仕方ないから、何かに「置く」という概念を持たざるを得ない。

ここでも悩む。バナナは「置かれる」ことに不調法なのだ。変な言い方だけどそうとしか言いようがない。他の果物、たとえばリンゴや柑橘系なんかは、むしろ置かれたがっているのにバナナはどうもダメだ。

だから「バナナスタンド」なんていうものが存在するんだろう。

バナナスタンドを欲しいとは思わないけれど、なにに使うのかよくわからないものにバナナが置かれてるのは好き。

ある人がそんなことを言ってたのだけど、わかりみが瞬間接着剤で300個ぐらいくっ付いて積み上がるぐらいわかる。

そうなのだ。バナナはどうやら置かれるのが嫌なのではなく「ちゃんと置かれる」のが苦手なのだ。だから、なにに使うのかよくわからないものに置かれるほうがバナナにはしっくりくる。

僕もそうだ。ちゃんとしたところに置くのに向いてない。なにに使われるのかよくわからないけどなんかいいなと思うもの。そういうものや生き方と向き合っているのが合ってるんだと思う。