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みんなが好きだけど嫌いな、運の話

ライターをしてると、いわゆる「成功者」の話を聞くことが結構ある。

これから書くのは「そういう話」ではなく、取りとめもない話なので安心してほしいのだけど。

「成功者」と聞くだけで、なんだかぞわっとする人もいると思うし、成功者? だから何? って興味ない人もいる。でも、完全無視できるかというと、やっぱりどこか気になるんじゃないか。

それは成功欲(そんな欲あるのかな)でもなくて、なんだろう。もっと人間の根源的なところから気になるものと、社会的動物としての性みたいなものが関係してくるのかもしれない。

何を成功者の定義? とするのか問題もあるのだけど、まあ、かなり雑なマーケティング的に見れば、たとえば書籍として「読んでみたい」需要が一定数見込まれる存在も成功者なんだと考えられる。

その上で、要素として「経済的自由」とか「成し得たもの」や「影響力」、あるいは「幸福度」とか、そこにどんな成功因子を見出すかはいろいろある。

僕が本をつくるために取材して話を聞く成功者も、もちろんそれぞれ、いろんな成功のバリエーションを持ち合わせている。あたり前だけど、まったく同じ人生を歩んだ人がふたりいないように同じような成功者はいない。

なのだけど、不思議なことに多くの成功者が決まって、これだけは同じことを言うのがある。

「でもね、運が良かったんだよ」

言い方はさまざまだけど、だいたいそんなふうにどこか客観視した感じで言うのだ。ほんと、言うよ。謙遜してとか、そう言っといたほうが好感度上がるからとかでもなく。一応、そういう匂わせをされたらこっちもプロなのでわかる。

なるほど。いまの自分があるのは運が良かった、運に恵まれたから。

たしかに、そこに本に書けるのも書けないのも含めていろんなエピソードを重ね合わせると、そのとおりだよなぁと感じることも少なくない。

私がこの本で伝えたいたった一つのこと。それは、私は凄まじく運が良かったということです。以上。

だと本にならない。どんな発想も努力も結果すべては幸運に委ねられるとしたら再現性がなさすぎる。物語としてもおもしろくもない。誰も買わない。

もちろん誰だって運が悪いより、運がいいほうがいい。と思う。

中には「運なんて関係ないよ。あるのは自分の実力があったかなかったかだけ」と言い切る人もいる。それも一面では真実だ。

でも、そんな人でもいつどこで誰に出会うか、何に出会うかを100%コントロールするのはたぶん難しい。生きてる時代だって、明日の天気だって。

そういうのは「巡り合わせ」なんだろう。「運」という言葉や概念に抵抗感がある人だって巡り合わせまではさすがに否定する人は少ないと思う。

そう考えると、成功者で「運が良かったんだよ」という人は、巡り合わせを否定しなかった人なのかもしれない。もちろん、そのときには「これはいい巡り合わせ」と思わないことだってある。というか、ほぼ意識すらしてない。

でも、自分をちゃんと生きようとしてるときには、どんな巡り合わせもそれをちゃんと重ねていけば「結果的に運が良かった」と言えるものになる。たぶん。

じゃなければ、あんなにみんなロジカルな人もそうじゃない人も、成功者が「運が良かったんだよ」って言わない気がする。

こういうことを書くと「それは成功した人に話を聞いてるからそうなるよね」って、ある種の成功者バイアスとして捉えられるかもしれないけど、そうじゃない。

なぜなら、その人がまだ成功も何もしてなかった時点においては、成功者もそうでない人も与件としてはまったく平等だから。運がいいも悪いもない。

ただ、そこから違いを生むものがあるとすれば、ときには全く説明のつかないことも「まあ、そういうのもある」と巡り合わせを受け取ったかどうかの違いが大きいのかも。

そして、これも取材で長く時間や空気を一緒に過ごすとわかるのだけど、社会的にすごく成功者と見られてしまう人ほど、本質的にはいい意味で臆病だったりする。

自分がコントロールできるものを増やせば増やすほど、見えないものもその力を増してるのをどこかで感じてる。絶対にそんなことは表で口にすることないけど。

みたいなことも考えると、運がいいってそれはそれですごいなと思うんだ。