ヘブライ語の中の彼女
「思うんだけど、人生をヘブライ語の辞書か何かのように考えてない?」
ヘブライ語? 僕は驚いて彼女の顔を見る。
「たとえばの話」
彼女は、つまらなさそうにそう言うと、道端の小石をぽーんと蹴ってまた歩き始める。
遥か上空をいく飛行機のくぐもった音が、彼女を追い越すように聞こえてくる。
「なんかさ、あなたといるとすごく難しい問題を解かないといけない気がしてくるの。重たいのよ。こんなふうに言うのは間違ってるかもしれないけど、もっと普通でいいんじゃない」
「普通って何?」
僕は、言う。
「なんでも難しく考えすぎる、あなたは。世の中の人は、みんなそこまで考えてないって」
「ひとりぐらいそういう人間がいたっていいよ」
「じゃあ、そうやって一生考えてれば」
彼女は、僕を見ずに言う。
***
僕は、彼女の部屋に置かれている、古いファイヤーキングのマグカップやイスラエル製のビーズブレスレットを思い浮かべる。
彼女が一目で気に入って、僕はその雑貨たちの生い立ちに惹かれ買ったやつだ。
そこには彼女なりの小さな国があり、僕は通りすがりの旅行者にすぎない。
その国で彼女は普通の言葉を話し、僕は使えないヘブライ語を話している。
少しずつ離れていく彼女の後姿と飛行機雲を見上げながら、僕は離れ離れになった同胞たちのことを想う。
普通を否定するわけでも、好むわけでもなく、ただ自分たちの大事な何かを失いたくないだけの仲間たち。
けれども、そのことを彼女に伝えるための言葉はもうどこにもないのだ。