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自分の文章に信号機を持つ

文章を書いていて、ついうっかり使いそうになる「言葉」がいくつかある。いつも気をつけているのだけど。

「普通(ふつう)」という言葉もその一つ。文章じゃなくても話していても、ほとんど無意識で使ってるかもしれない。

「普通はこう考えるんだけど」
「普通はしないよね」
「普通にうまいんじゃない」などなど。

だけど、よく考えたら「普通」って何なんだろう。よくわからない。

誰にとってのどんな状況での普通なんだろうか。はっきり定義できないまま「普通」を使ってしまいそうになる。前提がすごくふわっとしてるのに。

よくわからないのに「普通」がさも当たり前にあるみたいに使ってしまってる。危ない。

べつに言葉としての「普通」を否定してるわけじゃない。そもそもの中国語にだって「普通話」があって、広くあまねく用いられるという意味があるし。

ただ、何か無意識の基準みたいなものとして「普通」を使ってしまうときがある。ほとんどの場合、言葉の発し手が勝手に線を引いた「普通」なのだ。

「普通はこうだけど」とか「普通にいいと思う」とか言ったとしても、その人にとっての普通であって、他者にとっての普通かどうかはわからない。それこそ、それが「普通」なんだと思う。

そういう気をつけなきゃいけない言葉はいくつかあって、僕はそんな言葉たちを文章を走らせるときの「信号機」だと思ってる。

信号機だから、青信号でそのまま使っていいのか、それとも気をつけて使うべき黄色なのか、絶対止まらないといけない駄目な赤なのかちゃんと考える。信号無視したら事故る。

決して使ってはいけないわけではないけど、使うなら周りを見渡して、ちゃんと「意識」して使う。

その意識を持って文章を走らせるだけでも、書き手として全然違ってくる。それだけじゃない。文章から見える景色も、文章でたどり着ける場所も違ってくるから。