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「正しい」はどこにあるのか

本当に正しいものが虐げられてる。正しいはずなのに無視されて悲しい。

たまに、そんな言葉というか感情に触れることがある。その気持ちはわかる。わかるのだけど、同時に「難しいな」とも思う。

本当に正しい、正しいはずという「正しさ」の危うさも一緒に感じるから。

正しさの危うさなんて、またちょっとわからないこと言ってる。だけど、基本的に「正しい」は危うい。というか常にフラジャイルな性質を持ってる。薄いガラスみたいなものかもしれない。

そんな「正しさ」を不用意に誰かに押し付けたら、パリンと割れてしまう。

誰かにとっての正しさは、他の誰かにとっての正しくなさであることなんて珍しくないし、正しいことをしたつもりで正しくない結果に終わることもあるし、正しくないことをしたのに結果的に正しいときだってある。

むちゃくちゃ当たり前のこと言ってる感がすごいのだけど、なぜか現実世界(リアルもネットも)では「正しいものは正しい」がすごく強い気がする。それも年々、そうなってる。

もしかしたらだけど、「正しい」なんて本当はどこにもないのかもしれない。

僕らは(勝手に一緒にするなと言われそうだけど)この世の中には「正しいこと」と「正しくないこと」があって、正しいが正義だと教えられてきた。

たとえば、学校という場所に通う年齢になったら「先生の言うことをちゃんと聞いて、ちゃんと授業を受ける」が正しくて、それができない、したくないのは「正しくない」扱いになる。

だけど学校で先生といろいろあった当事者からすると、先生の言うことだってそれは「学校」という文脈に担保された正しさであって、普遍的なものかどうかは怪しい。

ある程度、言葉で思考を表現できるような年齢になって、そのことをそのまま「素朴な疑問」として先生に表明したらおかしなことになったこともある。あ、べつに反抗とかそういうのではなくて。

どうやら、そういう疑問を持つことも学校文脈では「正しくない」ことらしい。そのときはわからなかった。

正しさの鎧を着て正しさの盾を持った人たちは、自分が認める正しさ以外のどんな正しさも跳ね返せるし、正しさの矛を持った人は、自分が認める正しさでどんな正しさの盾も貫ける。

ということは、やっぱり結果的に正しさは危ういんじゃないか。戯言。