最近起こりがちなことは
これはまったく個人の見解。とくに何か意図したものではないです。戯言。
誰かが声をあげる。おかしいんじゃない? 許されない。まあ声のあげ方はいろいろある。
そのうち、その声が増幅していく。
増幅された声はそれ自体が運動体になって、何かの対象を求めてさらに勢いを増す。運動体だからそのエネルギーが吸収されるか、何かを破壊して相殺されるまで止められない。
最初は声だったものが違うかたちに変質してしまって、もうなんだかよくわからない。でも運動体だからいろんな人を巻き込む。
人をたくさん巻き込んでしまうと、何かの「結果」を出さないと納得できない人が増える。
その結果が本質的解決かどうかはともかく、何か結果を出したことが大切になる。一部のひとは、そんなこと望んでたっけ? と思うようなことであっても。
最近界隈で目にすることの中には結構あるような気がして。
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経済学にそういう現象を表す用語がたしかあった。あれだ。合成の誤謬というやつ。
個人としては合理的判断での行動が全体で見れば不合理なことを引き起こすあれ。
たとえば、すごく極端な話をすると、社外にメールを送る場合(メール文化じゃないところも増えてるけど)、メールが確実に届いたかどうかの確認のための電話をするというルールを誰かがつくってしまう。
それを「ナイスなアイデア」と思った経営者が社内ルールとして、メール送付後の電話確認を徹底させる。
実にめんどくさい。それなら最初から電話でいいじゃんという話。ないと思いそうだけど、それに近いことは結構実際にある。
で、最初の話に戻ると、最近のあれこれも実は「合成の誤謬」だったりする部分もあるんじゃないか。
個人単位の正義やなんやかんやの積み重ねで、みんなが過ごしやすくなったり環境が良くなるかというと、そうでもないこともあるから。
自分にとっては正義だから合理性がある行動でも、必ずしも全体で見たときに合理性があるかどうかはわからない。結果、自分にも跳ね返ってきて、自分の居心地も悪くなってしまったりね。
もちろん、何かの「声」が悪いわけじゃない。そこには已むに已まれないものだってある。
だけど、その声が本質的な解決とか全体のいいことにつながるようにデザインできればもっといい。なんか、そこが足りないんだろうなという話。
じゃあ、自分に何ができるのか。そこも合成の誤謬にならないようにずっと考えてる。