見出し画像

シンプルなほうが広がりがあるんじゃないか

これしかできない、みたいな単純でシンプルなものになんだか惹かれる。

家電なんかでも、タイマーだけのシンプルなトースターとか。なぜなんだろう。

これも、いろんな考え方ができると思う。要素を削ぎ落として、本質的な機能だけを追求したとか、ミニマリスト的なスタイルに合うとか。

商品企画的にというかマーケティング的に「その方向」でつくられたものもあるし、実際、それで売れてるものもある。なんとなくだけど、いまってもう「多機能」はユーザーに響かないんだと思う。

自分に必要な要素として光ってるのは欲しいけど、いらんものがあれもこれも付いてるのを「どうですか?」と言われても「はぁ…」ってなる。

だけど、シンプルに惹かれるのはそういう現実的な理由だけじゃない。

なんていうかシンプルなほうが「豊か」な感覚もするから。またちょっと変なこと言ってるけど。

何が「豊か」なのか。たぶん、あれなんだろう。自分でどう使うかの余地が広い。シンプルだからどう使うか、どう付き合うかはその人に委ねられるというか。

たとえば、多機能なペンも便利(実際、愛用もしてる)なんだけど、その多機能さに豊かさはあまり感じなくて、なんなら鉛筆のほうが豊かさを感じる。

鉛筆なんて、本当に鉛筆でしかないのだけどデッサン的な使い方もできるし、本気で何か描くこともできる。極端に言えば、きれいに削られた鉛筆が並んでるだけでもちょっといい感じがする。

多機能なものがいくつも目の前に並んでも、ちょっと見た目がうるさいかもしれないけどシンプルなものならいくつ並んでてもいい。

あと、たぶん『大同電鍋』を導入したのも影響してると思う。

見た目はレトロな昭和の炊飯器みたいで、使い方も基本、外釜に水を入れて内釜に食材を入れてレバーみたいなスイッチを押すだけ。超シンプルなのに、「炊く」「煮る」「蒸す」という料理の基本が全部この電鍋一台で間に合ってしまう。

もちろん、○○モードみたいな設定はないし、液晶のモニターもない。すべては使う人次第。

逆に言えば、使う人が「きょうは、これをつくりたい」と思えば、余計な設定とか一切なしでちゃんとつくれてしまうのだ。

最初から多機能を謳っていて、○○モードとかいっぱいくっ付いててもほとんどその機能を使うことがないのに、シンプルなほうが結果的に多機能な使いかたができてしまう。

よく考えたら、このnoteだってシンプルな設計思想だから広がりが生まれたのかもしれないし、逆にnoteがどんどん多機能になっていくとどうなんだろうとか、ちょっと思ったりする。難しいね