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努力を鎧(よろい)にしてはいけない

努力の話ってみんな結構好きですよね。あの人、すごい努力家だよねとか、影の努力が実になってよかったとか。

けど、一方で「努力」に苦しめられてる人もいると思うんです。自分は努力が足りないからとか、こんなに努力したのにうまくいかないとか。

実は、そこまで「努力」に縛られなくても本当はいいのかも――。

いや、努力、いいんです。必要。自分がどうしたい、どう生きたいという何かがあって、そのプロセスでは努力が大事なことももちろんある。

あのイチローさんの哲学名言でも、選手時代こんなことを言われてましたよね。

努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。

うん。そのとおりすぎて。努力の天才という言葉があるけど、そうなのかもしれません。

いやいやイチローさんクラスの努力を語られても、という人もいます。それもわかる。あそこまでいろんな意味での努力ができる人ってそうそういないからイチローという存在をつくれたわけだし。

じゃあ結局、努力って大事なのか大事じゃないのか。どっちやねん!と言われそうだけど、僕が思うのは、なんていうかもっと「やわらかな努力」であってもいいんじゃないのかなということ。

結果的に「そう言えば。あのとき努力してたよね」と、あとになって振り返るぐらいのもの。

努力が好きで、負荷のかかる努力が意識的に楽しめたり大丈夫な人はもちろんそれでいいと思います。でも、努力そのものに苦しんでる人には違う考え方もあるよって。

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サンクコストという言葉があります。経済の話でよく使われます。これは、これまでに投じたコスト(時間とかお金とか労力とか)でもう回収不可能なもののこと。Sunkは「沈む」という意味なので、沈んでしまったコスト。

たとえば何かのプロジェクトをしてるとします。どう考えても良くなる見込みのない赤字が続いているのに、これまでたくさん時間やお金、労力を注いできたからとプロジェクトを引き上げる決断ができない。

こういうとき「サンクコストに縛られてる」という言い方をするんですね。

同じことが「努力」にも言えて。とにかく努力が大事だから、努力しないと評価されないから。そういう努力を続けてるとき、何か手応えがあるならそのまま続けてもいい。

だけど、とくに手応えもなくて苦しいしかなかったり、一応努力の結果は出たけれど何かしっくりきてないというときは、努力そのものが「サンクコスト」になってるかもしれない。

努力が「鎧」のようになって、本当はもっと他のことするとか柔軟にやってもいい自分を縛ってる可能性もある。

あと「努力の鎧」って周りから何か言われるのを文字通り鎧となって防げるし、ある意味便利なんです。そのために、もしかしたら他の可能性をはじき飛ばしてしまってることも。

なので個人的な考えだけど、僕はガチガチの努力ってあまり好きではなくて、やわらかく努力してるぐらいが好き。

やわらかく。だけどちゃんと続いてる。そんな努力を表す言葉があればいいのだけど、なかなかないですね。