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僕は日記が書けない

何をおっしゃっているのか。そう思われるかもしれない。

いやいや、あんたライターでしょ? 日記ぐらい書けるでしょ。ご指摘をいただいたら真顔で申し訳ありませんと言うしかない。

思えば、子どもの頃からだ。「日記」と名の付いた課題とか宿題は、僕にはうまく食べられない食べものと同じ存在だった。

子どもの日記なんだから、文章的に何か求められてるわけでもない。そんなこともわかってた。

「きょうはおとうととゲームをしました。3かいやって、2かいぼくが勝ちました。でもさいごの1かい負けたのでぜんぶ負けたみたいでした」

そういうのでいいのだ。いや、わかってたから逆に書けなかったともいえる。先生や大人が日記に何を求めているか。

いやな子どもだったかもしれない。他の科目はまるでそういうのわからなかったし考える気にもならなかったけど、日記も含めて国語はなんとなくわかった。

その日に起こった出来事、思ったこと、感じたことが「子どもらしく」「のびのびと」書けていればとりあえず問題はないのだ。

わかっていて、なんで日記が書けなかったのか。

その日に起こったこと、それで思ったことも感じることももちろんある。書こうと思えば書ける。のだけど、いざ「日記帳」なんかの前に向かうと、全然べつのことを書きたくなってしまう。

おとうととゲームをしたはずなのに、その相手が途中から半魚人に入れ替わり、半魚人から「このゲームに負けたら、お前の願いと俺の願いをひとつ交換しよう」と言われたりする。

僕が「べつにいいよ」と言うと「変な子だな」と半魚人は言う。

みたいな日記だったらいくらでも書きたいのだけど、そんなのは求められてない。というか、先生によっては「この子、大丈夫だろうか?」とべつの心配をされる。そういうのもめんどくさい。

大人になったいまも基本的に変わってない。noteでも日記はうまく書けない。

日記を書く「その人」にすごく興味があったり、ファンだったりしたらどんなこと書いててもいいんだろう。僕だって、この人の日記は読んでみたいと思う人はいる。

じゃあ自分が逆に、そんなふうに読みたくなる存在かといえばそうは思わない。ふつうに日記書いても誰も得しない。

いやべつに、そんなの日記を書くのにめんどくさいこと考える必要なんて本当はないのもわかってる。誰に向けなくても自分が「書いておきたい」気持ちがあればいいんだ。

そもそも日記は自分のためだ。誰かに評価されるために書くものでもない(そういう意味で国語教育の場での「日記」の構造はちょっと変だなと思うけど。日記で国語力を育てる役割はわかるけど、育てる構造が伴ってないから)。

だけど、どうも自分には自分の日記を「書いておきたい」という根源的欲求が欠如してるらしい。

それよりも、このちょっと変な世界でこぼれ落ちてる、それだけでは意味のないものの断片を拾い集めることだとか、日常と非日常がすれ違う妙な瞬間だとか、陽だまりに揺れる哀しみだとかそっちを書いておきたさがある。

まあ、それが僕にとっての「日々」だから、そういう日記なら書けるのだけど。