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世界は個が感じるものでできている

一切のイデオロギー的な意図とか思想はなくて、僕が「そう思う」だけの話。ポリコレ棒は必要ないので。

何についてかというと時代の区切り的なことだ。個人的には元号が変わるのはひとつの事実として受け止めてるし、それ以上でもそれ以下でもない。

端的に言えば「平成最後のなんとか」「令和最初のなんとか」はもう飽きた。

まあ祭りを盛り上げてるのは、主に大きなメディアとか消費に関連する大きな企業とかなので、個人の生活には関係ないっちゃないんだけど、それでもたまに生活の中に入り込んでくるので「もういいよ」ってなる。

改元とか時代の区切りをどう捉えるかは、まったく自由なので、お祭りを楽しみたい人は楽しめばいいし、うまく乗っかって何かしたい人はすればいいと思う。

もちろん、そういうのとは別のところで個人的に「平成って自分にはこうだったよな」とか思い返したり、何かの個人的な語りを持つのだって自由だ。

そこに違和感があるとすれば、本来、個人の文脈で語られるものが、なぜか増幅されて「大きな文脈」で「平成とは一億総なんとかになった」みたいにメディアで流れ出てしまうところ。

たとえば街頭インタビューや記事のコメントで一人ぐらい「いやべつに元号変わっても特になにもないです」という人がいたっていいし(いると思う)そんなものだと思う。けど、そういう人はメディア的には「いないこと」になってる。

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平成の終わりに自分を振り返ってとか、さあ新しい時代だと煽られても、とくにそこには何もない。

どんな時代に生きてたって、いい日もあればそうでもない日もある。

突風に揺さぶられ揺れ動く日もあれば、凪のように何も動かない日もある。人生なんてそんなものだ。なんなら毎日、新しい時代を迎えるぐらいの生き様をしてる人だっている。

社会学者岸政彦さんは「どんな大きな出来事も、ばらばらの個人によって経験される」と語っていたけど、ほんとそう。戦争だって震災だってそうなのだ。大事にしたいのは大きな文脈ではなく、個人の文脈だ。

平成が終わっても終わらなくても、一人ひとりの個人が立っている場所は本質的には何も変わらない。時代が変わるからといって、クリティカルな問題が消えてなくなることもないし、目に触れるものがどれも突然きらきらし始めることもない。

だから、僕は平成最後の日も草木のように淡々と生きてる。そんなものだし、それでいいと思ってる。