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街に座り込むと見えてくるもの

街に座り込む。通常の文脈では、それはおかしなことだ。

身体の具合でも悪いのか、あるいは抗議行動的な何かなのか。そのどれでもなく、ただなんとなく気分で街に座り込むのは「異質」だから見なかったことにされるか、排除される。

街は常にクリーンでフラットな状態を保たなければならないのだ。異物がないように。なぜかはわからないけれど。

それでも街に座り込んでみると(もちろん合法的に誰にも迷惑にならないように)、いろんな素朴な考えや問いが浮かんでくる。

なぜ、街では目的を持った人しか行き交わないように見えるのか。突然、立ち止まって思索に耽る人はなぜいないのか。

歌い始める人がいてもいいのに、なぜ誰も歌わないんだろう。

基本的にみんな、予定から予定へと向かって歩いている。街に座り込んで見てると、いろんな人の予定が顔に書かれてたり背中に点滅してたりするのがわかるのだ。

予定も何もなく、ただ街にぽつねんと座り込んでる人(べつに人でなくても)が異質、あるいは異物にされてしまうのはなぜなんだろう。

もしかしたら経済的には何も生み出さないからかもしれない。

街ではお金になることか、お金を使って得られるもの以外、基本的に意味を持ちにくい。

逆に言えば、そうした意味を阻害しそうなものをそのままにしておくと、どこからか苦情が来る。ビルの入り口のツバメの巣のように。

もし、どうしても存在を許されようとするなら、そのときは街と経済の文脈において「その対象のアイデンティティを消して馴染むようにしたもの」にしないといけない。

それは本当の意味での存在ではなくなってしまってる。つまり「ない」のと同じだ。

そんなことを書くと、こいつはいろいろ斜めに見て否定したいんだろと思われるかもしれないのだけどそうではなくて。

ただ本当に素朴な疑問。だからずっと考え続けてしまうだけ。