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人は無人島で言葉を覚えるのか

言葉はどこにあるのか。言葉のゼロ地点ってどこなんだろう。どうでもいい話です。

たとえば、もし自分がポツンと無人島に生まれ育ったとして、言葉を覚えるのだろうか。

そもそも「無人島で生まれ育つ」が原理的にあり得ないという異論は認めます。でも、まったくないとは言えない。

「人」がひとりでも存在した時点で無人島ではなくなってしまうのだけど、それでも自分しかいなくて、他の人との接触や情報のやりとりがまったくない島はやっぱり無人島なんだろう。

とりあえず、そんなところで自分が孤独に(他者という概念をまったく知らないのにそう感じるかどうかも疑問だけど)育ったとして。

無人島で言葉を覚えるのかという疑問もそうだし、言葉で思考するのだろうか。

ごくあたり前に、生まれたときから他に人がいて言葉を覚えて育った人は、ほぼ無意識だけど頭の中で何かものを考えるときも「言葉」で考えてる。

クリティカルなことからどうでもいいことまで。僕なんか後者の度合いが高い。いまのこのnoteなんてまさにそうだし。

言葉を扱ってるくせに、言葉だけで考えるのも良くないというか、そのせいで見落としてるものも実は結構あるかもしれないと思うことがある。

言葉って脳のアプリとして便利だからつい使ってしまって。他者に何か伝えるのでも、自分の中で何か思考するのでも。

そう考えると、もし無人島で生まれ育って言葉を覚えて持ってなければ、もしかしたら言葉の代わりに言葉に代わる「超感覚」を持ってたかもしれない。

「超感覚」ってなんか微妙な表現というか概念だけど、他にどう言えばいいんだろう。コグニティブ? 言語を使わない感覚の中で、言語で理解したり推論する以上の認知や理解ができてしまう状態。

そういうものへの、よくわからない憧れみたいなものは常にあって。

言葉を誰にも教えられずに身についた「言葉」はどんなものなんだろう。その言葉を使って何か表現したくなるんだろうか。

そうなるとnoteみたいなプラットフォームとのインターフェースも「念」とか「祈り」で投稿するとかになるんだろうか。怪しいな。でもちょっと興味ある。