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問題を排除するのが本当に解決なんだろうか

なんとかを二度と買いません。なんとかの利用をやめました。

最近多いけど今年は特に多かった気がする。まあ、これ書いてるnoteもそうだったし。

一年の終わり、大みそかに読むような楽しいnoteじゃないので、そういうの嫌な人はここでそっとタブを閉じるの推奨です

こういうこと書くと、まじでめんどくさい(本質的ではないという意味で)のが飛んできそうなんだけど。

いちいち説明するけど、一連の事象(やらかし)そのものを肯定する気はまったくなくて。ただ、それに「反応」するだけの人も結構多くてそこがなんかもやっとする。

もうひとつ、これもいちいち説明するけど、いわゆる“ボイコット”の語源である、19世紀イギリスのチャールズ・カニンガム・ボイコット(Charles Cunningham Boycott)氏を擁護するつもりもなくて。

イギリス陸軍に従軍していたボイコット氏は、退役後、従軍時代に縁あったアイルランドの地で大地主のエルネ卿の下でランド・エージェント(土地代理人)として働いていた。

土地を借りて農作する小作人の管理や賃料の徴収をしていたのだけど、まあ評判が悪かったらしい。

で、当時の土地自由化運動の流れの中で、ボイコット氏の管理する農地の小作人や労働者らが連帯して農作業を放棄。作物の収穫が激減し、ボイコット氏は窮地に追い込まれ、最終的にはアイルランド王立警察隊が出動する事態になったところから「ボイコットする」という言葉が生まれた。歴史の勉強おしまい。

なんだろう。そういう「本当に闘ってる」人の言葉や行為は、べつにもやっとはしなくて。自分だって同じ立場になったらそうするかもしれない。そこには、どうしようもない切実な何かがある。

だけど、切実さとはかけ離れた次元(いわゆる安全地帯)から、何かを一緒に排除していいことした気になってたり、解決したつもりだったらそれはちょっと思慮が浅いんじゃないか。

それを続けて根本的に本質的にみんなが良きものを考えたり、大事なことに気づくようになってるんだろうか?

逆もまた真なりで、ちゃんと考えるべき問題(issue)を排除することは、自分もまたそこに加担してることになる。

以前、僕がプロデューサーで関わったある演劇とアート系のイベントでこんなことがあった。

憲法をテーマにしたアートと演劇パフォーマンスのコラボレーション。そう書くと「え、そういう何か政治的な運動?」とほとんどの人が思うみたいだけど、そういうイデオロギー要素はまったくないやつ。どっちかというと「土」がテーマ。

いまドラマやCMでよく見かけるMくんとか、人気シリーズの吹替やってる渋い声の俳優Hさんとか、大学の演劇サークルの子たちが集まって2日間だけの公演をした。

毎回、上演後に舞台で作者や出演者とのトーク(ダイアログ)があったのだけど、そこで年輩の観客のひとりが「そういう公演では問題は解決しないんだ」的なことを、前後の文脈をぶった切って演説し始めたのだ。

いや、どんな意見や感想を持つのも自由だけど、いまはそういう議論をする時間ではない。意見テロ起す人たまにいるけど。

他の観客も、なにこの人的な空気になる。

まずはこの場を元に戻さないとおかしなことになるので、僕はその観客に「ご意見があるのはわかりました。でも、ここではやめましょう」と伝えたのだけど、聞く耳を持たない。

どんな意見があっても「対話」ができないのなら、それは自分で自分の意見を自滅させることになる。あなたが、私たちのテーマを否定するのなら、あなたもこのテーマについて何も言ってはいけないことに自動的になりますよね。

そこまで言って、ようやく黙った。

くり返すけど、僕は誰がどんな意見や考えを持つことも「ある」と思ってる。それがどんなに自分とは相容れないものでも、それを否定すれば自分もまた同時に否定される。

ただ、それはちゃんとお互いの存在を認める原則がある場合の話。

自分が許せないものの存在を認めるなんておかしいっていうのもわかる。

これは僕のすごく個人的な原則だけど、失敗とか罪という点で人間は二つしかいないと思ってて。

失敗したり罪を犯した人間と、まだ失敗したり罪を犯してないだけの人間。

失敗しない人間、罪を犯さない人間がいるわけじゃない。これは良い悪いの話ではなく、人文学的かもしれないけど「そういうもの」という話。

失敗や罪やそこに懸かる問題を「排除」しようとすることは、結局いつまでも何も変わらない選択をしてるのと同じなんだと思う。

なんで一年の終わりの、みんなでほっこりしようとしてるときにこんなこと書いてるのか、自分でもさっぱりわからないけど。本当によい年にしたいなら、ちょっと考えておきたかったのかもしれない。