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楽しいが迷子になってる

秋は自省的になる。マルクス・アウレリウスの季節だ。

いや、そんな高貴なものじゃない。もうずっと自分の中で決着も付かず、放置したままになってる話。

「楽しい」がわからないんだ。

Are you nuts? この人、ほんとに大丈夫か? と思われること必至な案件なのはわかってるけど。端的に言えば、楽しいがずっと迷子になってる。

「あ、いま楽しいんだろうな」というのはある。べつにずっと難しい顔してるわけでもないから、傍目には「楽しそうじゃん」という瞬間もあるんだと思う。

けど、ほんとに楽しければきっと「あ、いま楽しいんだろうな」なんてことすら考えないというか、脳裏をよぎらないと思う。楽しいかもしれない自分をメタ的に見てしまってる時点で純粋ではない。

みたいに書いたら、なんかよほど抑圧的な人生を過ごしてきたかのように思われるかもしれない。

まあ、たしかに子どもの頃からなんだかんだあって、こんな仕上がりにはなってるけど、べつに自分では「なんか、いろいろあったな」というぐらいだ。べつに、とりたててひどいとも凄いとも思ってない。誰かのせいでも自分のせいでもない、自分の人生。

なのだけど、それとは別の次元で、どうやら自分は「楽しい」がわからないかもしれないというのをずっと持ち続けてる。

もっと言えば、世の中的に「楽しい」とされてることがあまり楽しいに届かない。嫌だ辛いみたいな感情は起こらないけど、楽しいゲージには振れないというか。わからないこと言ってますよね。

ベタな例で言えば、誕生日とかのイベントもそうだ。昔から、あまり楽しいと思ったことがない。

誤解のないように補足すると、誕生日を誰からも祝ってもらえなかったとか、誕生日にひどく悲しいことがあったとか、猿に追いかけられたとかでもなくて、物心ついたときから「誕生日」に対してとくに特別な感情がない。フラット。

可哀相な人だねと思ってもらってもいいのだけど、ないものはないから仕方ないし、だからって「ちゃんと楽しい」人を醒めてみたりもしてない。楽しいほうがいいと思う。

まあ、大人になってからのほうが困る。

以前、ある界隈ではそれなりに節目の大きなイベントにプロデューサー的な立ち位置で関わったときもそうだった。

イベントを成功させる要素のひとつに、みんなを巻き込んで「楽しい空気」をつくるというのがある。そこはそれなりに気を遣って、具体的にいろんな関係者にも協力してもらって仕掛けもして楽しい空気をつくることができた。

おかげでイベントそのものは成功と呼べるものだったし、自分でもやってよかったといまでも思ってる。関係者にもいろんな意味でエポックになったのだけど肝心の自分は「楽しい」がわからなかった。

たぶん、そういうのは周囲にも漏れ出てたんだろう。自分なんかがこういうのやっちゃっていいんですかね? みたいなことをポロッとこぼしたら、ある先輩から「楽しめばいいんだよ」と言われた。そのとおりだった。

いまも楽しいは迷子のままだ。

なにをすれば楽しいがつかめるんだろう。だからって日々つまらないわけでもなくて、それなりにいいなと思うことはいろいろある。情緒的に豊かな瞬間も。ただ、楽しいとはちょっと違う。

もうここまできたら、楽しいがわからないことを楽しめばいいのかもしれない。