書いてるものでその人のどこまでわかるか
ビジネスの人だと思ってた。たまに、そんなふうに言われることがある。自分ではそんな自覚はないので、逆にちょっとびっくりする。
アドベリフィケーションがとかカスタマーサクセスがみたいなことをnoteにも書いてる印象があるみたいだ。
そう言われれば、そういうものに触れるときもあるかもしれないけど、そんなビジネス系のメディアど真ん中な記事って、実はほとんどnoteでは書いてない。
書籍ライティングの仕事では書くし、そういう専門家の人たちを取材もする。で、たぶんそこではあたり前だけど、僕もその空気というか文脈に混じってるから、たぶんビジネスの人なんだろう。
そう言えばインタビュー原稿や、広告コピーも書くし、帯コピーなんかも書く。編集の仕事では純粋な原稿だけじゃなく企画書とか構成とか台割も書く。もっと細かいのではキャプションなんかも書くに入ってくる。
たまたま、そういうっぽいことに触れたnoteの記事を、これもたまたま読んだ人はもしかしたら「あ、そっち系の人だ」と認識するのかもしれない。
でも、たぶん僕のnoteを普段読んでくれる人(いい人が多い)は、もしそういうnoteを目にしても「あれ、なんかいつもと違う」ぐらいには思っても、ビジネスの人とは思わないかも。わからないけど。
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書いてるものでその人のことがどこまでわかるのだろうか。
半分はわかって、半分はわからない。お互いに「ちゃんと書いてる人」で「ちゃんと読んでる人」でもそんなものじゃないのか。
というか、それを言うなら僕だって自分自身のことすらどこまでわかってるか怪しい。
たぶん、noteで書いてるもので言えば振り幅はある。
書くことについての話、書いて生きるためのわりと真地面な話(なんかそう書くと変な感じだ)や、日常と非日常のどこにも行き場のないよくわからないエッセイみたいなのも書くし、ふつうに道を歩いてたはずなのにどこかで時空が歪んでいった断片小説も書く。
じゃあ、「そういう人」なのかというとそれもわからない。そういうのも書く人としか言えない。
自分でもわかりにくいなと思う。自分がどう見えるか、自分をどう見せるかに「素の自分」はあまり興味がないというか、考えなくはないけどたくさんリソースを割り当てないのだ。
そういうとこもややこしいしめんどくさい。自分がどう見えるか、どう見せるかのあれこれとか、ビジネス的な文脈でどうすべきかまったく知らない訳でも、それができないわけでもないから。
まったく知らければ知らないで、そっちのほうが楽だしわかりやすい。そういう人になれるから。
もっとわかりやすい書いて生きる生き方だったらいいんだろうなと思う。でもまあ、そういう仕様だしヤギだから。
あと、たぶん本質的な部分では人ってそんなにわかりやすくはないと思ってる。ただ、それだといろいろ「不都合」なことが多いから、わかりやすいほうに寄せるのだ。意識的にも無意識的にも。それもわかる。
だから僕は逆に「わかりやすい」がしっくりこない誰かと自分のために、あえて「わからない」ものを書いてるところはあるんだ。それだけの話。