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安全安心な穴

一応、断っておくと、これはべつに特定の事象とか特定の誰かの発言について、主義主張とかどうこう言いたいわけではなくて。

言葉の使い手として、ここのところ「なんかモヤっとする」の正体を考えてみたいだけのもの。

べつにふだんから何かの言葉の揚げ足を取ろうと待ち構えたりはしてない。そんな暇な人は少ないと思う。それでも、どうしようもなく、見聞きしたときに「?」と思う言葉。

最近だと「安全安心」とかもそうだ。「安全・安心」と表記される場合もある。

使われ方はいろいろだけど、だいたいが、わりと大きな事象にくっ付いて発せられる。「安全安心な大会を目指す」とか「安全安心な社会」とか。「安全安心な豆腐の食べ方」とかはあまり言わない。

あとは企業が「お客様の安全安心のために」云々とコーポレートサイトに掲げたり。

え、それのどこに違和感あるの? と思われるかもしれない。安全で安心なんでしょ? それが悪いことなの? と。

もちろん、包括的な概念としては「悪いもの」でもなんでもない。「危険不安な社会を目指す」なんて言われたいわけじゃない。平和がいい。

なんだけど、言葉として違和感を感じるのは「安全安心」が常にセットで使われ過ぎな問題。最初からそれがあたり前みたいにセットで、何でも「安全安心」って出てくると変な気持ちになる。

これも、あたり前すぎてお前に言われなくてもだと思うのだけど、そもそも「安全」と「安心」は全然ベクトルも中身も違う言葉だ。

「安全」は論理的・科学的な構造やデータの裏付けを持ってるもの。
「安心」は人間の心理というか気持ちの部分に訴えるもの。

全然、違う。通常、このふたつは住んでる世界が違うので、あまり出会わない。一緒にいるのはむしろレアなぐらい。そこに小さな違和感がある。

「安全」さんが住む世界は、なんていうか非常にストイックでそんな軽々しく「安全っすねー」とは言えないのだ。

たとえば設計の世界には「安全率」という重要な概念があるけど、通常の使用状態とそれを超えて耐えられる限界との比を指す。

ふつうに人が乗って100KgまでOKとされてる脚立があったとして、その安全率が3なら300Kgまでは耐えられる設計や構造になってるということ。

だって、100KgまでOKで安全率1で体重100Kgの人が30Kgのもの持って脚立に乗ったら、崩壊したなんてことになったら怖い。

世の中のものはたいてい、そういうことも考えてきちんと安全率を取って設計してつくられてる。だからって無理な使い方を推奨してるわけではないです。

で「安心」さんのほうに戻ると、安心はほぼほぼ「人」がつくってる。なんていうかウエットで論理的というよりは「気持ち」の部分が大きい。

たとえば「この人といると安心できる」っていう表現があるけど、そこにべつに安全率のデータとかは関係ない。ただ、その当事者がそう感じればそうなのだ。

反対に「この人といると安全」という言い方は日常であまりしない。もし、あり得るとしたらそれはボディーガード、用心棒みたいな存在になってしまう。

整理すると、もし「安全安心」をセットで使いたいなら、「安全」部分はちゃんと信頼性のあるデータや仕組みで示しつつ、「安心」部分は「その人そのもの」の安心感をちゃんと出せないと難しい。

現実に、なかなか両方セットで揃ってる人っていない。なのに「安全安心」を振り撒く人が多いと、やっぱりちょっと変だ。