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自分をいかして生きること

よく考えたら、ふしぎなこと言ってる感じもする。自分をいかして生きる。

自分が生きてるのと自分をいかしてるのってどう違うんだろうって思う人もいるかもしれない。

これは西村佳哲(にしむら よしあき)さん/プランニング・ディレクター、リビングワールド代表、働き方研究家の『自分をいかして生きる(ちくま文庫)』という本から使わせていただいているのだけど。

基本的に僕は「生きてることを仕事にしたい」と決めていて、信州に移り住んでからさらにそっちに流れてるのだけど、それってまさに「自分をいかして生きる」なんだ。ふわっとした自己啓発的な話ではなくてリアルに。

この本の初版が2011年。ちょうど僕も自分をすごくアップデートしたくて、ふみぐら社も立ち上げて2年目で、自分をいかすも何も自分のリソース、持ってるものは全部投入して「仕事と自分」をつくってる時期だった。

いろんな意味でまだ何も先なんて見えなかったし、いろんなものが「ある日突然変質するんだ」というのを肌で感じながらの日々。

選べるものより選べないもののほうが多かった。まあ、そんなものだよなと思いながらとにかく前に進む。

べつにそれが偉いってわけでもなく、ほかにやりようもなかったし、朝昼夜関係なく自分をほぼ全部仕事に突っ込んでいく時間。それはそれで、そのときしかできない経験をしたんだと思う。

その結果なのかどうかはわかならいけど、とりあえずどんなことをしていても、どんな仕事の中にも「自分」って顔を出すんだなというのもわかった。否応なく。それが結果的に「自分をいかして生きる」にもつながっていく。

なんでこんなことを書いてるのか。たぶん、いまいろんな人がいろんなところでこの問題に直面してる気がするからだ。

しかも「選べない」っていう状況も揃ってる。だからこそ、どこで何をしてもその中に「自分をいかして生きる」が必要な気がしていて。

『自分をいかして生きる』で描かれているのは、もともと「働き方」と「生き方」は背中合わせで、どっちかだけをうまくやれるものでもないっていう前提があって、だからこそいちばん大事な仕事は「自分をいかして生きる」なんじゃないかっていう仮説。

ここだけ切り取ると、わかるようなわかんないような感じなんだけど、この本では「結果的に自分をいかして生きる」をやってるいろんな「つくり手」の現場を西村さんがたずねてインタビューしている。

どんな仕事、自分がやろうと思ってやったもの、誰かに頼まれてやることになったものでも、どんなものでも「自分がどこかに紛れ込む」から、その仕事と真摯に向き合ってる人は自分を生かして生きるになるんじゃないかと。

じつは、この話を「これからのライターサークル」でもしてるのだけど、ものを書くことを生き方にする人だけじゃなく、きっとnoteの街の人たちもどこかで、ただ「何かしてる」だけじゃつまらないなって思ってる気がする。noteの街に集まる人の雰囲気として。

いろんな意味で「元に戻る」が正解なのかもわからない。僕だって偉そうなことは1ミリも言えないし、ほんとわからない。

だけど、何がどうなっても「自分をいかして生きる」を感じられる人がいれば、こういうことがきっかけでそのことと向き合う人が増えれば、きっと良くないことだけでもないような気がするのだけど。

この本で紹介されているイタリアの尊敬されるデザインの巨匠、アキッレ・カスティリオーニのことば。

――いいプロジェクトというのは、自分の存在を後世に残そうという野心から生まれるものではありません。あなた達がデザインしたものを使うことになる、誰も知らない見ず知らずの小さな人々と、ある交換をしようと思う。その気持ちから、いいプロジェクトは生まれるのです。

この「いいプロジェクト」を「いい文章」に置き換えて僕も生きてかないとなとあらためて思う。ほんとに。