経験しないとわからない、経験してもわからない
気をつけてることがある。言い聞かせてるといったほうがいいかもしれない。
自分にはいろんな経験が足りてないんだということ。いい大人になってもそうなのだ。いい大人になったから余計にそう思うのかもしれない。
若かりし頃は(何を基準にというのはあるけど)、そんなふうにあまり思わなかった。自分に経験が足りてるか足りてないかなんて考えなかった。
客観的に考えれば、どう考えても経験は足りてないのだけど、そんなことどうでもよくて、考えもしないのが若さなんだろう。過ぎ去りし時間。
まあ、だから基本は謙虚にだ。林道を歩いていて前から来たクマさんとすれ違ったときも謙虚さは忘れない。ちゃんと距離を置いてお辞儀してクマさんの行動をじゃましない。
こっちも用事があるのでクマさんが「お嬢さんお逃げなさい♪」と歌うように言ったとしても、いやいやお先にどうぞと笑顔を忘れずこっちも仁王立ちを続ける。そもそもお嬢さんじゃない。
いや、それはちょっとだけ嘘をついた。
クマさんに出会った経験はない。経験が足りてない。ちょっと足を伸ばせば出会っても不思議ではない環境なんだけど。
これも経験しないとわからないことなんだと思う。
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最近は「具合が悪い」を経験した。
基本的に生きてて具合が悪くなった経験がなくて、あっても瞬間的なもので、ほんとちょっと寝たら良くなるぐらいのもの。たぶん、そういうのは「調子が悪い」ぐらいなんだろう。
今回は、はじめてといっていいぐらい具合が悪かった。
病気noteではないし、このご時世あんまりそういうこと書くとややこしいので細かくは書かないけど。まあ、いまも脱しきれてはいない。
自分が具合悪くなってみて、いちばん思ったのは「辛い」とか「健康ありがたみ」もそうなんだけど、それ以上に「具合が悪いってこういうことだったのか」だ。
これまで自分が経験してないから、音の響きとか字面では「具合が悪い」を認識できても、ほんとうのところはわかってなかった。
誰かが「具合が悪い」と表明してても、「具合が悪いんですね」という以上のものが自分の中に刻まれない。人に冷たいとかではなく、わからないのだ。
自分がほんとに具合が悪くなってみて、はじめて「具合が悪い」を文字だけじゃなく認識できた。具合が悪いって、ほんと自分ではどうしようもない。その「自分ではどうしようもない」辛さが少しわかった。
だけど、そんなものは本当に具合悪くて辛い人のレベルではないのもわかってる。自分の辛みは自分のものなので比べるものでもないのだけど。
じゃあ、「具合が悪い」にしても自分が経験したから、これでちゃんとわかったのかといえばそうじゃない。経験してもわからないこともたくさんある。
そもそも、いまの自分は具合が悪いけれど「病気」なのかどうかは自分ではよくわからない。
市原真先生(病理医ヤンデル先生)の言をお借りすれば、具合が悪い(病気である)とは「こないだまでの自分がうまく保てなくなること」で、反対に健康とは「こないだまでの自分をうまく保ち続けてること(ホメオスタシス)」。
自分をうまく保てる日もあれば、そうでもない日もある。そして、この先自分がどっちにどう進んでいくのかもわからない。
生きるって経験しないとわからないことだらけだし、経験してもわからないことがこんなにもあるんだ。