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人なんてわからない前提で話したいことがある

端っこにいる人生だった。いや、比喩的な意味ではなく。比喩だとしてもおもしろくもなんともない。

なんていうか、そもそもの自分という個体のアティテュードというか仕様がそうなってる。しょっちゅうそれ言ってる気もする。

ここで、あたまのいい人は「おや?」と思ってるかもしれないけど、アティテュードと仕様を並列に表記してる時点でこの人おかしい。なぜおかしいのかは各自、調べろくださいなのだけど。

まあ、少しだけ言い訳的に補足すると、人は自分でどうにかできるものと、どうにもできないものの複合で存在してるのだ。どっちかだけにできれば楽でめんどくさくなさそうだけど、そういうふうにはなってない。

あと、そうなってみたことがないので(原理的に難しくない?)わからないのだけど想像してみるとどっちかだけ、とくに「自分にどうにかできるもの」だけ100%で構成された人生って、きっとつまらない。

だって、全部自分が思ったようにしかならないんだよ?
え、こんなことが待ってたの? というのが何もない人生――。

いや、そっちのほうが絶対いいっていう人もいると思うしそれを否定してるわけじゃない。

話が微妙に逸れた。そういうとこだよ。

で、僕はだいたいいつも端っこにいる。半分は自分で選んでるし、半分は選んでない。でも気づいたらそうなってる。

まあ、そういうものなんだなと思うしかない。諦めてるわけでも儚んでるわけでもなくて。そのおかげで、他の人に見えにくいものが見えたり、端っこ特有のおもしろさもあったりする。

ここを言語化すると、みごとに誰も読まない謎の文章ができあがるので、そういうのはまたどこかで。

みんな真ん中に集まりすぎ

だいたい端っこって、そんなに人が集まらない。僕はそこの居心地に慣れてるというか、むしろ好きなのだけど、わりとほとんどの人はせめてもう少し中のほうに集まりたいのだ。端っこは淋しいのかもしれない。

なんで、こんなことをつらつら書いてるのか。

じつは、今週ずっとうっすら頭の中をぼんやりと漂ってるものがあったからだ。


なんかね、ほんと自分の人生を生きよう。

落ちつくところはそこなんだけど、そもそも「自分の人生を生きる」という概念というか表現だって、ストンとはまる人もいれば「ちょっと何言ってるかわからない」人もいると思う。そういうものだし。

マリナさんはめちゃくちゃあたまのいい人だから(僕が言ってんじゃなくて立川談志師匠が言ってると思ってください)わかってる。それ故のセルフアンサーnoteだ。

じゃあ、お前の答えはなんなん? と言われたらもう既に答えはここまでの中で書いてる。という書き方だと駄目だ。

「自分の人生を生きる」だと本質的過ぎて抽象度が高くなる現象があるので、言い換えると「自分の生態系」があるということ。

なぜかはわからないけど、人はそれぞれ持って生まれたものも、与えられたものも、自分で手に入れたものもみんな違ってる。冒頭で書いたみたいに「自分でどうにかできるものと、どうにもできないものの複合」として生態系の中にいるわけだ。

で、そこで生きていく(ハードな言い方をすれば生き延びていく)には、自分で自分の生態系を認識するしかない。

それが嫌(認識すらしたくない)というなら何もいうことはないし、僕もいつもどおり端っこに戻る。

自分の生態系の認識は自分にしかできない。そこは『嫌われる勇気』と同じ次元だと思う。読んだ人はわかると思うし、読んでなくても字面だけでもだいたい合ってるから。あ、いやほんとはもっと深い。

自分の生態系を認識して「自分でどうにかできるものと、どうにもできないものの複合」ってこともわかって、それでどうするか。

あたり前だけど、自分でどうにかできるものをちゃんとするしかない。

どうにもできないものを嘆いて怒って攻撃して妬んでも、その行為に満足できても(するのかな)事実は何も変わらない。対象が自分でどうにもできないのだから。一応、蛇足かもだけどこれは「正義と悪」の話じゃないよ。

自分でどうにかできるものは、それがどんなことでもやっていく。

トレンドだろうが何だろうが、新しい古い、人が集まる集まらない、どっちでもいい。それで誰かに何か思われる言われるなんてのも、どっちでもいい。

それやってて楽しいかどうか

僕の場合なら、人が注目するものの端っこも好きだし、人が全然注目しないものの端っこも好き。仕事で言えば、毀誉褒貶ある有名人とか上場した起業家の話もすごい聞くし、人なんかより獣の相手してる人の話も聞く。

それを他人から見たらブレてると言われるかもしれないけど、自分の中では「人間と人間として話ができるのなら」一緒だよなと思ってるから、そこは自分でどうにかできる。

自分でどうにかできることはやってて楽しい。自分が。

自分なんてつまらないふつうすぎる、だからとくに自分でどうにかできることもないって人もたまにいる。それもわかる。

けど、ふつうなんて(言葉では言っても)現実にはないし、ちょっと位相をずらせばそのふつうだってそうじゃなくなる。僕らのふつうは他の文化からすれば全然ふつうじゃないみたいに。

これはまったくの偏った考えだけど、もしいつも真ん中あたりにいてつまらないなら端っこに行ってみたら? と思う。

そしたら、案外自分のふつうの中の価値とか、逆に端っこのおもしろみとかも発見できるから。