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精神的豊かさは書けるのか問題

文章を書く人間として気をつけてることがいろいろある。

不用意な言葉を使わないのもその一つ。もちろん、取材だとか、それに近い対話とか、あるいは流れるように文章を書くときにも。

そんなの、どれもそれなりのスピードで進んでいくのに逐語的にすべての言葉を用心深く使うのは難しいのだけど、それでも基本的には意識をする。

取材や対話の場合は、その前後も含めてお互いに「場の空気や流れ」を共有できるので、明らかに不用意な言葉が混じってコンタミというかおかしなことになってるを察知したら、そこで修正できる。

だけど文章の場合には、うっかり不用意な言葉を文章に使ってしまっても、相手がどう受け取るか、そこでどんなズレとか溝が生まれるかはなかなかつかめない。

仮に、何らかのかたちでフィードバックがあったとしても、具体的に文章のこの言葉が自分にはこう訴えてきたとか、こう作用したなんていう詳細なレビューまでは基本的にはない。

あったとしてもなんか違うと思ったとか、そもそもそんな不用意な言葉にぶつかった時点で読まれなくなる。

「精神的豊かさ」なんて言葉も気をつけないといけない。一見、それっぽいことを言ってる感じがするから、つい使われがちなのだけど、そもそも「精神」も「豊かさ」もそれぞれが曖昧なものだ。

なんとなく「ある」のは、ほとんどの人が否定しないけれど、じゃあどれが具体的に「精神的豊かさ」なのかなんて、ほんと人それぞれ違う。

猫のしっぽを撫でてることが精神的豊かさな人もいるし、猫じゃ駄目で羊のしっぽじゃないと精神的豊かさを感じない人だっている。

羊にしっぽなんてあったっけ? と思う。でもほんとは結構長いしっぽがある。僕らが知ってるほとんどの羊は人間が「断尾」してるので丸く短いだけ。

羊のしっぽは馬や牛みたいに、虫を追い払うのにも使えないしただダランとぶらさがってるだけで、ほとんど何の役目も果たさない。しかも羊毛でふっさふさなので汚れやすいし、そこからいろいろ病気の要因にもなるから。

どうでもいい無駄知識だけど、無駄の中に精神的豊かさを感じる人だっている。

まあ、だから精神的豊かさはほんといろいろあるってことをわかって使わないといけない。メディアの記事によくある、貧しくてもそこには精神的豊かさがある――みたいな「まとめ」も、それも「人による」。

言えるのは、精神的豊かさも、そうではない豊かさも決めるのは自分であって、誰かが決めるものでも用意するものでもないということ。

その人が「自分で見つけて決められる」ように書く。そうじゃないう不用意な言葉はゴミ箱に捨てたほうがいいと思うんだ。