想いが救ってくれたりする
コンセプトもそれらしくて、数字も整ってて、分析もちゃんとされてるのになんだか気持ちが乗らない企画ってある。企画のための企画。
乗らないというか乗れないというか。そんなの何も考えずにやることが「正解」なのも知ってるんだけど。
何がそうさせるんだろう。いろいろ突き詰めていくと、ぶつかるのが「想い」の不在だ。想いとか言ってしまってるけど。
企画のアーキテクチャも成り立ってるし、マーケットの要因や各種数字、ターゲットに関する考察、ゴール、そこに行くための戦略と戦術はちゃんとある。
必要条件も十分条件も満たされてる。だけど「想い」はどこにも感じられない。
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想いがあるかないか。そんなのビジネス文脈ではどうでもよくて、というかむしろ余計で、そこを考えはじめると答えが邪魔されることも少なくない。
このデータ、抽出するのにすっごい大変だったんで想いがすごくあるんですとかいらない。想いは個別定性的すぎて扱いにくいのだ。
世の中そんなに全部が全部、想いが入ったものばかりじゃない。それもわかる。そこは関係なくつくらないといけないものもあるし。
実際、それで「売れてしまう」ものもあるから。
だけど、それでも最後の最後、想いに救われるというかどうにもならなくなりそうなところを「想い」が救ってくれてなんとかなることだってある。
深いところを取材してるとそんな話はよく出てくる。
大手企業がどんなに最新技術を使ってもうまくいかなくて追い詰められてたのを、担当者が町工場のおやじさんにポロっとこぼした想いから、それまでけんもほろろだったおやじさんがすごい老練な腕でなんとかしてしてくれて、最後抱き合って喜んだとか。
日曜夜のドラマじゃなくても本当にある。
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冒頭で「想い」がどこにもない企画のための企画って言ったけど、本当はまったくないわけじゃない。あるけど出せなくなってるのが多い。
ずっと出さなくなってると、だんだん想いの出し方も存在も忘れてしまって「ない」みたいになってるだけだと思う。
じゃあ、自分が出したかった想いって何なんだろう。そう考えそうになるけど想いって考えるんじゃなく、ただ持ってるだけでいい。
だけど、自分の想いが行方不明なんですけど、という人はこんなふうにすればいいんじゃないか。
見えないけれど、想いはある。そのことをちゃんと感じられてる人と出会うと、相手の想いがぶわっと感じられて、なんか力がもらえるし、これもふしぎなんだけど自分の想いも目が覚めたみたいになる。最近、僕もあった。
想いを武器にしようとかそんなこと考えなくても、いいんだ。自分や誰かが「触れる」だけで力になるから。やっぱり想いって大事。