人間のエネルギーが薄い
「快適は快適なんだけど、人間のエネルギーが薄い」
都心の高層ビルにあるコワーキングスペースで作業していた妻からのLINEだった。
ふだんは里山の緑豊かな(こう書くといかにもそれっぽいけど、単に田舎です)仕事場にいるので、通常運転で人間が少ない。
どう考えても都心のコワーキングスペースのほうが人間の数は多いのに、人間のエネルギーが薄いってどういうことなのか。
またここでも「人間のエネルギー」なんてよくわからないこと言ってますが、べつに怪しい話じゃなく、なんとなく日々感じること。
なんだろう。ただ活動量とか情報量がすごいことになってる人というのでもなく、もっと根源的な部分で「この人、エネルギーすごい感じるな」という人がいる。
反対に、いろいろ動いていて忙しそうにしてるんだけど、会って話してもなんだか「エネルギー」を感じない人もいる。ふしぎなことに。
表面的には静かな人でも、エネルギー感じる人はいるので、単に「エネルギー=活動の派手さ」ではない。
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noteでも、いろんなタイプのエネルギーがタイムラインに流れている。というか、もしかしたら、ほぼエネルギーに反応して誰かのnoteを読んでるのかもしれない。
静かでも何か感じるエネルギー、圧がすごくてでも嫌な圧じゃなくバイブスが心地良く感じるエネルギー。そういうのが漏れ出てると、呼ばれるのだ。読みたくなる何かが。
で、だいたいそうやって呼ばれて読んだnoteは人間のエネルギーもすごく感じる。なんていうか存在を感じる。「人感」だ。
思うのだけど人間のエネルギーとか「人感」って、頭の中だけを使ってると薄まっていく気がする。都心の高層ビルのコワーキングスペースには相対的に、頭の中をすごく使う人たちが多く集まるのかもしれない。
否定するわけじゃないです。ただ、いろんなものがハイパー便利になって「頭の中」だけ使ってもなんとなく仕事ができてしまうのにつれて、人の存在感がなくなる気がしていて、そうなると、そこでのアウトプットに価値がなくなった瞬間にその人の存在も消えてしまう。
そういう構造って怖いなとも思って。
たびたび書いてるかもしれないけど、noteはいろんな種類の「人感」がちゃんと出やすいメディアだからnoteの街を歩きたくなるのだ。僕のnoteは村だけど。
もしnoteが何らかの地殻変動を起こして、情報はすごくあるけど「人感」のうっすいメディアになったら、きっとそんなに寄り付かなくなると思う。
なんだかんだ快適なことばかりではなくても、ちゃんと「人」がいる、それも好きな人たちのエネルギーとことばに会える場所がやっぱりいい。