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2020年スカイウォークへの旅

個人的には魅力がある場所(スポット)でも、その魅力をシェアするのがひどく難しい場所がある。

なぜなら「わかりやすい」魅力がなく、どちらかというと「え、それのどこが?」とポカンとされてもおかしくない場所だからだ。

その名前を「スカイウォーク」という。名称はいいよね。空を歩けるんだから。

スカイウォークへの旅を心待ちにしている人のために一応、付け加えておくと、ここには宇宙開発予算の何100分の1かに匹敵する予算を投入して立てられた立派な見学施設もあるし、数百円で別世界へと旅立てるチケットも買うことができる。

ただし、そこには何の期待感もない。運転免許試験場で手数料を支払うのと大差はない。

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早速行ってみると思ったとおり、誰もいないし何もなかった。

我々がよく「やっと着いたね。でも、なにもないところだね」と思わず口に出したくなるときの条件がそろっている。そんな場所だ。

何かが一応あるけれど、何も訴えかけてくるものがない。逆に言えば「訴えかけるものがない何か」が存在している分、余計に虚しさが広がってくる。虚無だ。本当に何もないほうがまだいいのかもしれない。何がどういいのかは、よくわからないけれど。

間違ったものを間違った場所につくってしまった。今さら取り壊すわけにもいかないから、仕方なく存在している。不毛という言葉が似合いすぎる。

そんな場所は、この国にいくらでもあるのだろう。世の中のすべての場所が思惑通りに機能していたとしたら、それはそれでなんだかおもしろくない。

それはともかく、人がいない。炎天下の平日の午後に、ここを訪れる人なんてそうはいないのだ。

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スカイウォークへのほとんど唯一の公共交通手段であるバスが空気を載せて時折やってきては、岸壁ギリギリのフェンスにもたれかかるように停まると、運転手は一通り車内を点検して、どこかに消えてしまう。

そのままバスまで置き去りにされても不思議はないような気がする。

なんていうか、ここには目的性を感じさせるものが何もないのだ。陽炎のように揺れる対岸の港の景色を見ていると、余計にそう思う。そこには、さまざまな目的を持った人々が文字通り、次の場所を目指して行き交っている。

それに引き換え、僕のいるこの場所は、どこにもたどりつかない。どこにもだ。

         *

「昔、ある星の片隅にスカイウォークという場所があったんだ」
「ふーん。それで?」
彼女はたいして興味なさそうに言う。たとえ、このパンダは魚を釣るのがとても上手なんだと言っても同じような反応をしそうな気がする。

「ある日、ひとりの女の子がスカイウォークの番をすることになったんだ」
「番?」その表現がおかしかったのか彼女は少しだけこっちを見る。
「昔の話だからね」僕は言う。「女の子はひどく退屈だった。なにしろ、誰もやって来ないんだ」

女の子は毎日、9時に扉を開け、12時になると持ってきたお弁当かシチューの缶詰を開けて食べ、3時になるとオナニーをして5時には、また扉を閉めた。

「ねえ、なんでそんなことしなくちゃいけないの」
彼女は、不服そうに言う。まるで、自分がそうしなくちゃいけないみたいに。
「わからない。きっと、それが仕事だったんだよ」
「莫迦みたい」
そう言い残して、彼女はどこかへ行ってしまう。

僕は、海の見えるベンチに座り、買ってきたバゲットを齧る。

視界の隅のほうで、鳩がウロウロしながら様子を伺っている。パン屑を放り投げてやれば、糸で引っ張られたみたいにこっちにやってくるのだろう。

僕は、バゲットを食べるのをやめ、立ち上がる。

誰もいなかったスカイウォークから、一組のカップルが階段を降りてくる。派手に化粧をした女の人と妙に目立つブレスレットをした中年の日本人男。

やっぱり、ここはどこにもたどりつかない場所なのだ。