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あたまのおかしいはなし

ときどき、いろんなことの前提をまるっと覆して考えてみる。

たとえば、こういうもの。大人になるまでが学びで、大人になってからは働いて稼ぐ。そこが逆転したらどうなるんだろうとか。

たぶん、なにをおっしゃっておられるのですかだと思う。

子ども、学生と呼ばれるのが「学びの時期」で、そこを卒業して社会人になって働いていく。あたり前のことすぎてあえてこうやって言語化するまでもない。

そこの前提をなくしたらどうなるんだろうという話。

子どものときに働いて大人になったら逆に学ぶ。すごいあたまのおかしいこと言ってると思う。なんならポリコレ棒で叩かれる案件だ。

もちろん児童労働云々の次元での話ではなくて、ある種の思考実験。

明らかに「学び」だけで考えたら大人になってからのほうが「学びが深い」ことはよくある。よく言われるあれ。

大人になったいまなら、子どもとか学生のときにもっと勉強しておけばよかったと思う現象。いまどこかでもう一度学びの機会があるなら、これとかあれとかもっと深く学ぶのにって真剣に思う。

でもそれは、大人になったいまだから言えるという前提がある。

大人の理解力、思考力、知的な興味のベクトル、応用のおもしろさその他いろんな要素が発達したからこそ「学ぶっておもしろいじゃん」と思えるわけで。あの頃の自分はまだそこの回路ができてなかった。

部分的には回路ができてるところもあったかもしれないけど、そんなにたくさんのシナプスが目覚めてなかったと思うし。

あと、やっぱり「仕事」を通して学びが立体的にデザインされていく場面を何度も経験したのも大きいと思う。

立体的に学んだ仕事はいろんな意味で得るものも多い。そこでの仕事の学びが、また新しい仕事につながるというか積み上がっていく。そういう経験って、学びだけが分断されてるとなかなかできない。

そうなんだよな。子どもとか学生のときに「学ぶ」「勉強する」が、いまひとつ肌感覚として遠かったというか、上滑りしてたのは(そうじゃない人もいると思うけど)自分の中で「学びがつなげてくれるもの」の実感、プロトタイプが見えないしつかめなかったからかもしれない。

ということから考えたら、もちろん現実的に子どもが労働を担うわけにはいかないので、大人の自分が自分で仕事しながら学ぶデザインをするしかないんだよな。

そういう意味でも、これから一度社会人になってまたどこかで学びに戻るというか入って、また仕事してというトラックがもっとふつうのことになるといいんだけど。あるいは仕事と学びのパラレルとか。

という学びについての戯言。