夢見るインターネットじゃいられない
最初は「夢」だった。いまでは信じがたいことだけど、インターネットの最初の頃はインターネットには夢が詰まっていたのだ。
時空を超えて分かり合える人たちが分かり合える場所。まさに夢だった。だけど、夢を見ていられる時間はそう長くは続かない。
ネットの世界が「夢」から「現実」になっていくにつれ、そこは夢の世界ではなく現実の拡張世界になっていった。プラスのこともマイナスのことも。
さらに、もともと人間が持っている特性上、どうしてもネガティブなニュースや奇異なネタにほうに強く反応してしまう。古典的な表現だけど、メディアで「犬が人を噛んでも話題にならないが、人が犬を噛めば話題になる」というのと根本は同じ。
人は自分だけが知らないという状態に、良くも悪くも耐えられないのだ。
そして2020年代のいま。もはやネットにつながってることに、いちいち感動する人なんていないし、そこに「夢」を感じる人もいない。
みんながあたり前の現実の中でインターネットを使って、あるいはそれがネットであるという意識すらしなくなってる世界。
そこでは、みんなが当たり前にネットにフラットにつながってるからこそ、逆に僅かな違いが目につくし気になる。妬み嫉み僻みにも通じる空気。
こんなに夢がなくなってフラットなのに、なんであいつやあの子だけが違ってるんだ。
重箱の隅をつつくように、どうでもいいことを針小棒大に取り上げてみたり。もちろん全員ではないけど。
リアル世間でそれをやると、さすがに変な空気になりそうなこともなぜかネットの世界ではエコーチェンバー現象を伴って正義になったりする。Bang! Bang! Bang!
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そして忘れてしまいがちだけど、ネットを使う人は飽和点になるぐらいふつうにいるけど、ほとんどの人は身近なコミュニティといまの自分に必要な情報の出入り口だけでネットを使ってる。
べつにネットで何か世界ともっとつながろうとか、世界を深く知って考えようとか夢を見ようとか思ってないし、そんな「世界」がネットとかデジタルの向こうに存在することも考えない。
ネットがあたり前になる、フラットになるというのは意識高い文脈でいう、みんなが「ネットリテラシー」とかネットやデジタルの可能性に触れるわけではないということ。
たぶん、そこ大事なんだろうな。