意味と存在
世界は何でできているのだろう。ときどきそんなことを考えるでもなく考える。
途方もないことだから考えたって仕方ない。限りなく無意味だ。無意味だからこそ安心して考えられるともいえる。
これが意味あることだったら、そんなうかつに何気なくうつらうつら考えたりできない。うっかり考えたことが知らないうちに意味を帯びて、現実に何かに影響を与えてしまったりしたら怖い。
僕が世界は何でできているのかを考えたって、世界に1ミリも影響を与えない。それがわかってるから大丈夫なのだ。
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そうやってぼんやり歩いていると(そんな時間すら貴重で愛おしいのだけど)、「なんでこんなところにこんなものが」というものが飛び込んできたりする。
線路沿いに捨て置かれたオフィスチェア。
粗大ごみとして出されたものなのか、ガチ不法投棄なのか、それともオフィスチェアに座って足で漕ぎながらコンビニに向かおうとした誰かが途中でやっぱり面倒になって放置したのか。
たぶん、そのどれでもないんだろう。
誰が何のために、どうしてこうなったかもわからない路上のオフィスチェア。
そこに「意味」は存在しない。
それでも、そこにはオフィスチェアが置かれた世界が厳然としてある。既にオフィスチェアが置かれた世界は、ゆるぎなくそこにあるのでなかったことにはできない。
張られた合皮が劣化してこぼれそうになっているこんなチェアにも「新品」として出荷されたときが存在する。どこかの誰かのオフィスチェアとしての存在だったときがあるのだ。
僕の知らない、決して知ることのない「誰か」がそのチェアに座って意味のありそうな世界を眺めていた。
そのことに僕はいつも「そうか」と思う。諒解するしかない。世界はそうやってできているのだから。