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観察、考察、洞察の違いって何だろう?

ちゃんと見てるのか? ほんとにちゃんと見たの?

何か問題が起こったとき、当事者同士のあいだでよくそんなことばが飛び交う。

もっとちゃんと見てたらこんなことにならなかったんじゃないか、見てるつもりで見てなかったのでは? 見る場所、間違ってたんじゃない? などなど。

誰だってあると思うし、僕にだって覚えがある。

まあ、見るって何気ないことだけど実は難しい。どうしたら「ちゃんと」見れるのか。

どうやら僕たちは「見る」をちょっと簡単に考えすぎてるようだ。あるいは考えすらしてないままなんとなく見てる。

主に視覚的な意味で言えば、目覚めて活動して目を開けてるあいだはだいたい何かを見ている。そこに深い意識はない。だからこそ厄介だとも言える。

見るはオートマティックだから、「見る」の操縦桿を握り直さないといけないのだ。なんとなく見てるだけじゃなく、見ることで自分の行きたい目的地に行けるように。それって、どうやって?

僕が意識してる「見る」は3つあると思っていて。そんなの知ってるよ、意識してるよっていう人もいるかもしれないけど。


1)観察という名の見る

カメラになったつもりでできるだけ解像度を上げて観る。このとき大事なのは「主観」を排除すること。人はふだん、自分が見たいところだけ見たいように見てるから。そのままを観る。嫌なものも美しいものも。


2)考察という名の見る

ちゃんとインプットできたら考察する。え、考えるってそれも「見る」なの?と思うかもしれない。ここでは考えながら見る。

何が起こってるんだろう、これがこうなってるんじゃないか? 仮説を立てながら見る。見ると考えるを50:50ぐらい(感覚値)でするのが考察。


3)洞察という名の見る

もしかしたらこうなんじゃないかっていう仮説を立てながら考察して、あ、やっぱりそうかもしれないなが見えてきたら、そこをもっと深く見る。表面の事象に惑わされずに「本当のところ」を自分でつかむために見るのが洞察。


人によっては、直感的な洞察から始めてそれを裏付けるために観察→考察ってする場合もある。まあでも基本は観察→考察→洞察。

見るの解像度を上げるの大事だよって話はわりと出てくるんだけど、その先の見るも意識して使えるようになると「ちゃんと見てる?」問題も回避できるようになるんじゃないか。

文章を書くときも、自分が見てるもの、見つけたテーマをそのまま書くだけじゃなくて観察→考察→洞察をして、そこで見えてきた世界も書くと「自分の文章」に近づけると思うんだ。