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信頼できる書き手は「声」を聴ける

苦しい文章と苦しくない文章がある。書いてても読んでてもね。

じゃあ、その文章はどこから生まれるのか。そんなの書き手の中からでしょと思うかもしれない。

たしかに文章生成的なAIを使ってなければ、書いてる人の中から生まれる。のだけど、そうやって生まれる文章にも息ができてるのと、息が上手くできてないのがあって。

息が上手くできてない文章は、なんていうか文章そのものの呼吸が浅い気がする。読むのもちょっと苦しい。

なんだろう。一切、給水なしにマラソンをして、途中で補給食にゆで卵だけ食べるみたいなレースに出る感じ。脳の中の水分をぜんぶ持ってかれるのだ。そんなレース出たくない。

なんで、息が上手くできない文章になってしまうのか。

これは自戒も込めてなんだけど、だいたいそういう苦しい文章を書いてしまってるときって「声」が聴けてない。

文章を書くときの声って何なのか。僕の場合はということだけど、文章って頭の中で生まれるのでも、手の先から打ち出されて出てくるのでもなくて「声」を聴いてるんだ。

語られたがっている声。これはリアルな誰かの声もそうだし、自分の奥深くからの声、かたちはないけれど「在る」のを感じる声。いろんな声。

よくわからないことを言ってるかもしれない。

けど、書いてても苦しくなくて、読むのも苦しくなく読めるものって、ちゃんと「声」がする。声を丁寧に聴きながら、なんならちょっと声と話しながら対話しながら書けてるときって楽しい。

その楽しさは読んでる人にも伝わる。伝わってしまう。

「声」をちゃんと聴くのも簡単なようで簡単でなくて、でもつかんでしまうとそれがあたり前になるからべつに超絶難しいわけでもない。

取材やインタビューでも相手が話してる内容、コンテンツもちゃんとつかむのだけど、それ以上に相手の「声」をどれだけ聴き取れるか。

声がちゃんと聴けた取材、インタビューはそこから原稿に起こしたときにも、すごく文章が「生きて」いて、息づかいがあって、なんなら文章の色気すら感じられるものになる。

それは、話し言葉で書かれてるとかそういうことではもちろんない。

取材を基にした原稿、インタビュー原稿以外でも、創作系の文章だとしても同じ。

じゃあ、この短いnoteの記事がちゃんと「声」を聴けてるのか。声と対話しながら書けてるのか。

正直なところ半分ぐらいだと思う。

これだけ日々、いろんな文章を摂取して、いろんな原稿を書いててもなかなか難しい。

忙しさという「灰色の男たち」に自分を預けてしまって、仕事は進んでも声を聴くことから離れてしまうとそうなってしまうことだけはわかってるのだけど。