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左遷されてみたかった

人生でおそらく一度も経験しないまま終わることってある。

左遷もその一つ。一度くらい左遷されてみたかった。言葉の響き。

こんなこと書くと「左遷された人の気持ち考えたことあるんですか?」とか怒られが発生するかもしれない。そのとおりだと思う。

だから一度されてみたかったのだ。わりと真面目にそう思って書いてる。

僕には「左遷された人の気持ち」が正確にはわからない。左遷経験がないからだ。まあ、組織にいた時間よりフリーランスになってからの時間のほうが長いしフリーランスに左遷はない。たぶん。

左遷された人の気持ちを考えたら、こんなことを書くべきじゃないのか、それともべつに書き方によっては書いても構わないものなのか。経験がないと自分の身体感覚を通せないから何とも言えない。

べつに左遷に限らずだけど、ポリティカル・コレクトネス的に全方位に「配慮」が求められれば、何も言わない書かないが正解になってしまう。

経験してないものは、その事象に触れてはいけない、書いてもいけないという法律ができてしまったら仕方ないのだけど。いや、法律の問題じゃないな。書き手なりに「ちゃんと」その事象と向き合ってるかどうかの問題だと思う。

だから、個人的には経験したことも経験してないことも、おそらくこれからも経験できなさそうなこともちゃんと向き合ってから書きたい。

それはね、何でも経験できるのがいちばんいい。経験者だから書けることって、この世界にはたくさんある。逆に言えば経験してないとうまく書けないものも。

さっき「身体感覚」って言ったけど、頭の中だけで書いた言葉より、身体感覚を通して出てきた言葉はいろんなものが違う。まとっている気配も、存在の軽さも重さも(ちゃんと軽いのだって意味がある)、匂いも、情感も何もかもが。

昔、山の木こりの人に密着して取材したことがある。

木こりの言葉でいちばん印象深かったのが「雨の最初の一粒がわかる」というものだった。

雨の最初の一粒。考えてみると、雨に最初の一粒があるのはあたり前なのだけど、ほとんどの人はそれを感じることもないし、そうやって言葉にすることもない。必要性がないからだ。

けれど「木こり」という職業は山の中に入り、全身で風や樹々、地形、獣たちの気配を感じながら仕事をする。そうでなければ安全に作業できないし、山から無事に下りることができない。

なんだろう。それ以上に、山の生きものの一部になっている感じがした。生きものとして「雨の最初の一粒」をわかるのだ。

なんとなくだけど、ただ言語表現として「雨の最初の一粒がわかる」と言ってるのではないのが僕にも感じることができた。

それから年月が経って、今度は僕自身が里山という山を背負った場所で暮らすことになった。木こりではないけれど、作業で山に入ることもある。

山を感じながら暮らしていると、あのときの木こりさんが発した言葉の感覚が甦ってくる。自分でも不思議なのだけれど、雨の最初の一粒が少しわかる。

ただ物理的に雨粒が落ちてきたことを言ってたのではないんだなということも。

もちろんプロの木こりとして経験したものでもないし、それはたぶんこれから先も一生経験しないと思う。でも、何か「近づいてる」のはわかるんだ。

左遷されたことがないし、木こりをやったこともない。でも、いろんなことでそこにできるだけ近づくことはできる。だから、何に対しても経験があってもなくても書くことをあきらめたり躊躇しなくていい。

あれ、真面目な話してるな。