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生きるのに向いてるけど社会に向いてない

いい大人なのはわかってる。それに、一応ライターという外に向いた仕事もしていて、それなのにこういうことを書いてしまうのはどうなんだ。

そんな冷静な自分もいる。だいたい常に冷静が平常運転してるけど。

まあだけど思ってしまったんだから仕方ない。自分はもしかしたら、もしかしなくても「社会に向いてない」ほうの人間なんじゃないかと。

不適合とまでは言わない。社会システムに乗ることはできる。なんだかんだそれなりにやってきたので、乗り方もわかってる。でも、たまに「これに乗らなかったらどうなんだろう」と素朴な疑問を抱いたりする。

もちろん社会的に混乱を招くようなアナーキーな「乗らない」ではなくて。

なんでこんなnoteを書いてるのか。この前、帆風はつかさんのnoteを読んで、自分もそういうとこあるな。あるけどないことにしてるんじゃないかという気持ちがむくりともたげてきたからだ。


はつかさんのタイトルにあるように「たぶん向いてないと思うんですけれど」が妙にリアルに自分にも迫ってくる。

絶対向いてないと思うんですけどでもなく、向いてなくもないと思うんですけどでもない「たぶん」の立ち位置。

いい大人になってそれなりに社会を歩いてきても、この「社会」で生きるってなんだろうと思う。こいつ何言ってんだ? って思われても思うんだから仕方ない。

社会の手続き。約束事。見えないけれど張り巡らされた暗黙の了解。ルール。あたり前と呼ばれてもはや意識さえ向けられないものたち。

そういうのにいちいち足を取られたり、ぶつかって痛たっとか言ったり、立ち止まって戸惑ってる人なんてほとんどいないかのように世の中は今日も動いている。だけど。

僕も傍目には何も問題なく社会的手続きをこなして生きてるように見えるんだろう。でも本当のことを言えば、結構な確率で戸惑うことが多い。


そもそも「社会」って何なんだろうか。小学生レベルの疑問と呆気にとられるかもしれないけど、いまだによくわからない。いや、新橋の駅前を歩いてる大人たちだって「なんとなく」しかわかってないんじゃないか。

誰かをつかまえて「社会って見たことありますか?」「もしかして、あなたが社会ですか?」と聞いたら、誰も即答できないと思うんだ。ドロップキックすらできなくなった秩序のない現代。

これができてあたり前。わかっていてあたり前。これをするためには、これとこれの手続きをするのがあたり前。何かが間違っていたらその間違いを事前に把握してちゃんとつぶしてスマートに、必ずゴールするのがあたり前。

だけど、ほんとにみんなそんなふうに、全体像もわからない複雑怪奇なダンジョンを目隠しで誰ともぶつからずに歩くみたいなことをやれてるんだろうか。

専門書を読んでいる方が、何億倍も簡単に思える。
世界は一体、どうなってるんだ。


僕もそう思う。

そういうのを全部取っ払って、逆に何もシステムも手続きも約束事も暗黙の了解もなくなってしまったら、もしかしたら世の中の人はそっちのほうが困るのかもしれない。

でも、個人的にはなくなったらなくなったで生きていける妙な感覚は持ってる。

そういう意味では単純に生きるのには向いてるのだ。生きることそのものは全然苦手とかではない。

土と風と水さえあればなんとかできるんじゃないか。そういう意味での「生きるのに向いてる」感覚。

でも「社会」で「世の中」で生きるにはそれだけじゃ駄目なのも知ってる。

生きるのに向いてるけど、社会に向いてない。noteだってそういう自分と誰かのために書いてる部分はあるんだ。