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「近代哲学の名著 デカルトからマルクスまでの24冊」 

熊野純彦 編  中公新書  中央公論新社

ライプニッツの素朴な問い


何故かはよくわからないけれど、ライプニッツの「形而上学叙説」から先に読んでしまう(読んだのは今日ではなくてちょっと前)。

 なぜ何もないのではなくて何かがあるのか。何もないほうが何かあるよりも、簡単で容易であるのに
(p160)


パルメニデスの発想に近い気もするけど、言い切れる自信?のあるパルメニデスの古代に対し、懐疑の色をはさまないではいられない近代、という違いはある。充足理由律(どんなものにも存在するなら何らかの理由があるはず)と最善世界説(今現前するこの世の中は、絶対神が選択したゆえに最善の世界である)との間に、上記p160の問いがある、という。
(2013 02/28)

フィヒテとシュティルナー


近代哲学の本から、一昨日(か、その前)はフィヒテ、昨日はシュティルナーのところを読んだ。どっちもカント・ヘーゲル周辺みたいな人ですが…

フィヒテはどっちかというと「ドイツ国民に告ぐ」で有名ですが、哲学者では知識学と称して全ての根本の知識は何かを問うた人。で、その答が「自我」となってその為になんか主観的過ぎる印象を持っていたのですが、ちょっとだけでもこうして読んでみると、案外普通?のこと言ってる、と見直したり(って、内容忘れてたり(笑))

一方シュティルナーの方は名前すら知らなかったが、この本の各章ごとに掲げてある別の人の言葉(これが近代以外の人からになっていて、そのつながりも面白くてこの本のポイントなのだが)がアレントの「誰」になっていて、シュティルナーという人はまさしく近代にこの「誰」「唯一者」を追求した人。そこからフォイエルバッハ批判などもしていったらしい…
(2013 03/14)

ロック・ヒューム・ライプニッツ

ロックを中心にヒュームやライプニッツを巡る。今日の印象を一言でいえば、ロックよりヒュームやライプニッツの方が現実に合っていそうだが、ロックの考え方が一番そそられるなあ、といったところ。「点的自我」とか。これは一番(でもないだろうが)最初にラディカルに経験論を説いた、ある意味、経験論のデカルトみたいな面があるからなのか。
新しい言葉とかを生み出す過程の議論などでも、習慣や承認欲求や社会関係などを重くみたヒュームの方が正しいような気もするが…でも、ロックも捨てがたい。

ライプニッツは微細現実とかの考え方が、今の情報理論(西垣氏などの)やドゥールーズなどには近そうな感じがする。

 現在の意識は、過ぎ去った表象の流れからつねに遅れて立ち上がる。
(p104)


これなど、イメージとしては最新の録画製品(ちょっと前のシーンを常に録画しておく)に近いものがあるだろうか。でも、やはりロックも捨てがたい…
この本全体のもう一つの特徴として、大陸合理論とイギリス経験論の近接性を重視しているところがある。
(2013 03/22)

近代のソシュール

今朝はコンディヤック。ここで取り上げたのは言語に関する考察(この人に限らないけれど、他にもいろいろな面がある…)。言語獲得の起源(ヴィーコと同時代?)を偶然的→自然的→制度的と発展する、と考えた。なんか前2つは逆のような気もするが(偶然的というのは一回性の何らかのつながり、自然的というのは刺激反応及びそれを見た他者の反応含む)…
最後の制度的というのがソシュールでいうラングだとすれば、パロールに当たるものはコンディヤックの言葉でいうと天才。コンディヤック自身はなんか偉大な作家みたいなのを想定しているみたいだが、まあ天才というのを制度から逃れようとする人間の一才能だと思えば…ここらの議論をデリダが評価しているみたい。

マイモンの微分

 客観が成立するありさまが意識されえないのは、それを与えるものが意識の外部にあるからでなく、それが直観には到達できない永遠の課題にとどまるからなのである。
(p123)


ちょうど微分のような、限りなく0に近づく、のような。マイモン自身が「微分」という言葉を使っている。

 むしろあらゆる可能的な差異の総体がそれぞれの個物にさきだたなければならない。
(p125)


コンディヤック以上に知られていない(ちなみにどちらも自分は知らなかった名前だが、コンディヤックの方は岩波文庫に邦訳あるみたいだけれど、マイモンにはない)みたいなマイモンだが、なんか記号論みたいな面白い発想をいろいろしている。この辺が参考文献に挙げられているドゥールーズに評価されているのかな(なんで参考文献に挙げられているのかの説明はない…)。
(2013 03/23)

中世のライプニッツ?


「近代哲学の名著」はクザーヌス。この本の中では特例に中世の人(14世紀)。神学者ではあるけれど、数学使った理論構築が目立つように多角的な人物であったろう。世界の万物は神かそう希求したからこそ存在する、とライプニッツと共通するようなことも言っている。
(2013 03/25)

カントとヘーゲルを手短かに

「近代哲学の名著」ではカントの「判断力批判」。全く無の状態で対象に対した体験こそ、他者と通じ合えることができるという、ある意味哲学者らしい飛躍。
(2013 03/26)

続いてヘーゲルの「論理学」から…

 或るものは、他なるものの「否定」を介して、はじめて「自らの肯定的な定在」をもち、その意味で「自ら自身から、他なるものに関係する」。
(p188)


定在というのは、まあなんかが「ある」とかいう意味みたい…この章全体で頭痛くなりそう…存在とは否定と肯定を繰り返す弁証法的運動、というわけなのか。あと、大事なのは、そうしていくことによって他者との関係が生まれる、ということだろうか。
(2013 03/27)

スピノザの汎神論と必然的決定論


スピノザと言えば汎神論と必然的決定論という割りとわかりやすい?人。
まず後者から。スピノザによれば、自分が自由に行動しているという意識は「目を見開いたままで夢を見ているようなものである」(p207)。まさにこの本読んでる時の実体験でもある(笑)、それはともかく、本当は全て決まっているのだけれど、神ではない不完全な人間にはわからないのだよというある意味楽観的な?ライプニッツと違って、スピノザの要請はきつい。自分が神の化身であり必然的な行動をとることを迫られているということは、それを実現できなかったものは消去?される、まさに毎日が背水の陣…ということか?
で、前者につながる。デカルトやライプニッツの外部から規定されている神ではなく、神が様々な実体内部にある(というか神の一変形というか)とするスピノザ。なんか「エチカ」はかなり難しそうだが、ある種の極であるスピノザにはまる?人も多いというのもわかるような気もする。
(2013 03/28)

カントに戻る

「近代哲学の名著」はカントの「理性批判」。例の4つのアンチノミーのところ。ここら辺はやっぱり近代哲学の白眉だなあ…という気がする。デカルトが出発させた近代哲学の拠り所となる理性と神が、その近代哲学自身によって封じ込められてしまう。理論の進め方は1年前?に読んだ石川氏のちくま文庫で追ったが…ここで挙げられているカント自身の文章みると、実物にも当たってみようかなあ、という気にも?なる。なかなか表現が文学的(平凡社ライブラリーや光文社古典新訳文庫でカント出てる)。
宇宙は有限なのだろうか?無限なのだろうか?

シェリングによる神の実存と根拠


「近代哲学の名著」もやっと第4部まできた。
で、シェリングですが、神の全能と人間の自由が矛盾する問題で、前者に着目したシェリングに対し、後者に着目し人間に自由など存在しないとしたスピノザ。シェリングは神の全能が実存と根拠に別れるという。根拠というのは、生物にとっての自然環境のようなもの。神なので?両者とも自らの内にあり、調和を望む神の実存に対し、力とか不安とかそういうものが根拠。人間はこの根拠の力を一部利用して人間の自由を行使する。そうすることで、人間は神(の実存)では到達できない悪を行使できる。この根拠の力というところが、後に実存主義(キルケゴールやニーチェ)につながっていく。神の構造とは逆になった人間はさかさづりの神となり、神の受難が始まる。
なんか普通に考えると反対みたいだが、なかなか面白い考え方。
(2013 03/29)

ルソーの原郷、スミスの神


「近代哲学の名著」第5部の最初の2つは、哲学者でもあるけど、他の分野でも有名な二人、ルソー(昨夜)とスミス(今朝)。この本の構成についてあまり言ってなかったけど、個人の認識から社会形成へと部が進んでいくみたい。ということで、この第5部は社会…
これまでのところ、社会唯名論的アプローチが多いみたい。社会がそれ自体で存在する、みたいなシステム論的な考え方は19世紀後半くらいから、かな。その時代に社会学も成立する。

さて、ルソーは言語の起源。前のコンディヤック?も似たテーマだったが、あっちが認識・心理のアプローチだったのに対し、こっちは社会形成のアプローチ。どうもルソーには「人間は孤独を好む」みたいな固定観念があってそこからちと違うような気もするけど、ルソーが想像する人類史初の井戸端会議?は印象的。それだけにフィクション?

一方スミスは道徳。とにかくスミスの道徳観は共感できるかの感情がベースにあって、これも一面ではいいけど、別の一面、自分内の行動理念や規則の許容幅に入っているかいないかというのもあるような気がして、鶏か卵か状態のような。で、どうしてスミスはこういう個人の性向が社会の合目性(社会がスムーズに動く方向性)に加担するか、という問いには例の「神の見えざる手」をどうやら用意しているみたい。でも、日本人が漠然と思っているような神ではない、もっと厳しい神を想定した方がいいみたいで…
(2013 03/30)

フォイエルバッハとマルクス


「近代哲学の名著」なんとか3月中に読み終えることができた。最後は標題通りにフォイエルバッハとマルクス。

フォイエルバッハと言えば、ヘーゲルとマルクスをつなぐ人みたいな印象しかなかったのだが、こう見ていくと、なんかどっちかというと実存主義の系譜なんじゃないか、と思う。一般的、抽象的な人間ではなく、個別、具体的な人間。フォイエルバッハの印象が180度変わったことのはこの本読んだ成果。

そしてマルクス。序説で個人が先か社会が先かという問題に後者が正しいと述べ、更に前者をロビンソン的誤解として、最初共同生活から近代社会になってやっと個人なる意識が高まってきたのに、社会契約論などは自分たちが立っている現在から過去や人間の本性を誤って類推しているのだという批判はなかなかに面白かった。
現在の進化人類学での利己主義的人間像と、共同体の生活(ポリス的人間)像は共存できるのかとか、この時代になってこのマルクス的考えなどの社会学や見方が出てきたり、一方では「想像の共同体」みたいに新たな国家・国民神話が登場したのは、いよいよ個人化への「解体」が避けられないことへの抵抗なのかなど、考えてみたいこと多数…
(2013 03/31)

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