見出し画像

「野生の棕櫚」 ウィリアム・フォークナー

大久保康雄 訳  新潮文庫  新潮社

この「野生の棕櫚」という作品は、「野生の棕櫚」「じいさん」という二つの話が交互に並んでいるという構成。こういう構成は今では(よく?)見かけるけれど、この作品が開祖…かな?
前者は人妻との子供を堕胎させようとして手術に失敗する医学生の話、後者はじいさんことミシシッピ川の洪水に乗じてボートで逃亡した囚人とある女の話…らしい。
(2015 09/16)

中公文庫で復刊されたらしい…
(2023 12/21)

ウィルボーン行進曲

 おれは罪なんて信じない。罪なんてものは調子を合せそこなったものなのだ。人間は生れながらに、つぎつぎと生れ出てくる名も知れぬ無数の時間と世代とに歩調を合せた名もない群集の連続行進にまぎれこんでいるものなのだ。一歩でも歩調を外し、一度でも躓いたが最後、踏み殺されてしまうのだ
(p67)


奇数章「野生の棕櫚」の中心人物ウィルボーンの言葉…というか意識の流れ。ここのところに作品全体構成の複雑化した理由もある。無数に生まれる出来事をランダムに記述したらこうなる。そこに因果関係の萌芽を見るか見ないかは読者の見方による…
(2015 09/18)

じいさんを見た、手にした自由は・・・


「野生の棕櫚」から、第4章「じいさん」

 黙々と立ちつくして予想と違うのに驚愕し、波を立てるのでもなく、ただわずかにうねっている硬い鋼鉄色の水面に見入っていた。それは、足もとの堤防から蜿蜒と目路のとだかぬ彼方まで延びひろがっていた
(p87)


これがこの「じいさん」の主人公たるのっぽの囚人の見たじいさんことミシシッピ川。彼は7年もそのすぐ近くで過ごしていたのにも関わらず、それを見たことはなかったのだ。この広がる川のイメージは、この後すぐ手に入れる自由のイメージと重ねられている。でもその自由は、川の自然の言ってみれば非人間的な存在。その中で彼はどうもがくのか・・・
この作品、交互並列な構成を除けば、時系列的な進みでフォークナーとしては読みやすい、のか。
(2015 09/21)

金の夢想と語りの手法

気になった箇所。実際にはない金の使い道をアレコレ考えて夢想する、というのは自慰行為に等しい、という興味深い記述。
(2015 09/28)

「野生の棕櫚」もやっと第5章まで読み終え。ウィルボーン逹の生活が湖近く→シカゴでの生活といろいろさまよっている。それも本人が説明してるのだけれど正直よくわからない…ってな感じの場面。そこから何か書いてみたい気もしたのだが…
(2015 10/01)

昨日は第6章読み終え。この章の終わり近くで唐突に、この「じいさん」の主人公たるのっぽの囚人の(相棒たるでぶの囚人との)語りが全面に出てくる。「アブサロム」等で実に緻密に展開されるこの語りの手法が、この作品の今まで割と時系列的に進んできた流れにどう溶け込むのか。
(2015 10/06)

裏表反転する、二つの筋


第7章まで読み進め。ここら辺で作品冒頭の堕胎手術に直結する展開になってきた。一方の「じいさん」第6章では最後に子供が産まれたようにも読める。この二つの筋は裏表みたいな反転させたみたいなそんな感じになっているのか。そこで焦点となっているのが子供の存在という構造。
(2015 10/08)

大地と水

大地と水(洪水で溢れた水)との対比での印象深い文章。

 お前がその大地の上に倒れれば、ときにはその明白な従順そのものの状態にぶつけて骨を折ることもあるが、それでも大地はお前を下へ下へとゴミみたいに呑みこみ包みこんで窒息させるようなことはないのだ。大地は、ときには固くて鋤も打ちこめず、へとへとに疲らされ、ときには一日かかっても飽くことなき大地の要求を罵りながら日が暮れて寝棚に戻ることもあったが、それでも大地は情容赦もなく、いっさいの知りぬいている経験からお前を奪い去り、どこにも戻れぬように何日間も縛りつけ手も足も出ぬようにして押し流して行くようなことはしないのだ。
(p273)


…大地と水の、どこに違いがあるのかわからないところもあるが、「野生のシュロ」と「じいさん」で今展開されているどうどう巡りみたいな生活が後者の範疇にあるのは確かだろう。そして、なんだか今の自分の生活にも似たような、現代のもがくような何かを求めているようでますます遠退いていくような。「野生の棕櫚」の生活の戯画化が「じいさん」なのだろう。そしてその何かとは恐らく自由…
(2015 10/10)

大地と水、そして死


難儀もしたが、とりあえずは読み終え。まずは死についての文章を。前の水の文章と比較してみたらどうだろうか。

 それは身体のことごとくが崩壊することであり、まるで堰を切られた水が落下してゆくように、一時は喰いとめられて彼が眺めているだけのいとまはあっても、なおもあの奥深い原生の地を求めてやまず、まっすぐに立って歩く程度の高さよりもはるかに低い地へ、眠りという小さな死の傾斜地よりも低く、紙のごとく薄っぺらな蹴返す靴の底よりも低い地へと求めてやまず、ついに平らな大地そのものに到り、それでもまだ低さにあき足らず、最初はゆるやかに、ついで次第に速くなり、最後に信じられぬほどの速さで四方にひろがり、姿を消して行き、ついに無くなり消滅してしまって
(p357)


解説では、この作品は、既成の事実の因果関係全てを壊した上で、そうした別々のところで魂が類似していることがある、と指摘したいのでは、と書いてあった。ウィルボーンとのっぽの囚人はこうして読んでいてもそんなには似てないような気がするのだけど、でも何かしらはあるような…
それは人類全体として持っているものか、否か…
(2015 10/14)

作者・著者ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?