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「ボマルツォ公の回想」 ムヒカ=ライネス(後)

土岐恒二・安藤哲行 訳  ラテンアメリカの文学  集英社

(あまりに長文なので、この本のみ?前後編分ける)

ムヒカ=ライネス情報。最近(でもない?)短編集「七悪魔の旅」も邦訳が出た。
あと、この「ボマルツォ公の回想」は土岐恒二と安藤哲行の共訳なのだけれど、第5章まで土岐恒二訳、第6章以後を安藤哲行訳となっている(もともとは土岐氏単独訳の予定だったらしいが、多忙のため安藤氏にお願いしたとある)。
自分の持っている本は、古本屋(在りし日のささま書店)で購入したものなのだが、訳者土岐恒二氏の謹呈栞が本に挟んである…相手は高橋康也氏…いろいろ感慨とか恥ずかしさとかあるのだけど、とりあえず字がきれい…

ボマルツォ公inヴェネツィア


第6章始まり、安藤哲行訳部分始まり、ヴェネツィアに到着。

 ヴェネツィアのその信じ難い光景は潟に結晶化した映像、まさしく夢の中の幻影にも似て、たちまち音もなく崩れ消え失せてしまうような浮遊し揺らめく幻のごときものであった。
(p308)
 また、儀式ばった統治の一点の傷もないような華やかさの裏で歯をたてる退廃の病いに冒された町でもあった。それが二十歳の秋に見たヴェネツィアであった。そして、おそらく自分が病んでいたためにヴェネツィアを心底から《感じた》のだ。私は感じたのだ、切なくも堂々たるあの黄昏時の病めるヴェネツィアと私は似通っていると
(p309)


語り手はこの16世紀のヴェネツィアこそが最も良く、現代のヴェネツィアは「絵葉書」に過ぎない、と述べている。旅行者、それも時間を超越した旅行者の傲慢な自慢話だ、と断っているが。
そして、このくらいの時代のヴェネツィアは、衰退とか腐敗とか病いとかそういうイメージで語られることも多い(「ヴェニスに死す」とか「シルトの岸辺」とか)。
オルシーニ家の親戚がいるエモ宮というところで滞在しているのだが、ここには戦いで負傷し療養している弟マエルバーレもいる、はずだが全く会わない、という。
とりあえず、今日は序のここまでで。
(2021 01/20)

パラケルススと不死

 星はいかなるものにも偏することはない、強要しない。星がわれわれから自由であるのと同じく、われわれは星から自由なのです。
(p316)


パラケルススとの「不死」についての対話。パラケルススはこう言って、語り手のホロスコープが不死を示しているというお告げを否定する。しかしパラケルススもまた不死を求めているのであって、それには2世紀前の手紙、オルシーニ家のどこかにあるというその手紙が必要となる、という展開。
一方祖父やヴェネツィアでのオルシーニ家親戚などは、戦いで武功を立てることこそ不死(の名誉)につながるとしている。そして語り手はただ不死を追い求めているだけなのか?

 テラスではほどかれた長い髪が金属の輝きを放ち、その輝きに、キラキラと光りながら手から手へと渡っていく鏡の反射が加わり、まるで美女たちが謎めいた信号を交わしているようであった。
(p327)


珍しくこういう箇所を。鏡がそこまで一般的(少なくとも貴族的身分の間では)であったのかはちょっと謎のような気もするが。
(2021 01/21)

ボマルツォ公outヴェネツィア


第6章読み終わり。

 それが生きるということだ。失うこと、歩いてきた道に残していくこと、手放すことが…。そして、不死であるということは痩せたジャンバッティスタ・マルテッリが舟の甲板の真ん中で酔ったあげく得意げに突っ立ったときにもまして、外も内ももっと裸になってしまうことと同じであるのかもしれない。
(p334)


ヴェネツィアでの舟遊び。語り手の舟だけでなく、いろいろ舟が出る中には、弟マエルバーレの乗った舟もあった。二艘の舟が出会った時、どこかの宮殿で火事が起こる。そこでその宮殿の当主を救う。
そうして上の文章が出てくるのだが、不死であるらしい語り手は、実に多くのものを残してきたのだろう。この回想記がそうした中の最後のもの。
もう一つ、第1章で、父が語り手を撫でながら、フィレンツェのダヴィデ像の話をしていた場面、あれは父が息子に対して何かを残していくという暗号だったのかもしれない。父がやり切れなかった何かを。
ヴェネツィア滞在最後は目的であった画家ロレンツォ・ロットに、父の肖像画に次いで語り手の肖像画を描いてもらう。

 われわれは仄暗い領域-不安な者たち、不満足な者たち、完全な告白のできぬ者たちに備わるあの領域-で交わっていたのであり、その中で同居していたのだ。
(p336)


ここは男色の入口にもなり得るのか。
これでヴェネツィアを後にする。語り手の次の課題?は、ジュリアとの婚礼と、パラケルススの示唆した不死の手紙を探すこと。
(2021 01/22)

悪魔のいる寝室


次の章、第7章はその婚礼から。

 そうして、私はオルテ近くに張られたテントにジュリアを迎えに出かけた。随員たちの間には幻想的な形の穂先の鉾と槍の森ができあがっていた。われわれが動くと微風がその金属の木立ちと戯れ、枝と実を揺するようであった。
(p357)
 なぜなら、その一行は、ボマルツォの地で演じられている華やかなそのパントマイムは、まるでエトルリアの墓の秘密を踏みつけるかのように、そしてまた、千年来の文明、秘密の儀式や呪文の土台に支えられているかのように城へと進んでいったのであり、ある意味でその一行はピエル・フランチェスコ・オルシーニという人間を正当化するもの、その最初の勝利の証拠となっていたからである。
(p360)


語り手がどこか遠いところから、影絵でも見ているかのように、自身の回想をしている。嘘や美化はなく正直な回想なのだろうけれど、それは自身の心理的その他もろもろのためではなく、突き放して見ているような気がしてくる。
そして、パンタジレーアの時と同じように、初夜は「失敗」となる。改装した寝室を語り手がチェックした時にはなかった悪魔の絵(像?)をジュリアが見つけ(この場所は父が死ぬ直前にシルヴィオが悪魔を呼んだ場所でもある)、生身の相手ではなく、夢に出てきたイメージに投げ出した。
(2021 01/26)

 ところで、まえにも述べたとおり、ボマルツォではそのような企てや、私が閨で勝利をおさめているという確信が淫奔な雰囲気を生みだすことになったが、それはまるで焼けつくような蒸気のごとくエトルリアの地から発散する官能的な空気を域中に広げていた、ところがその神秘的な流出物のことについては私は物心ついて以来気づいたのである。
(p372)


婚礼の儀を終えても、上流貴族から庶民まで奔放な雰囲気…ある一人の老婆などはあまりの行動のため閉じ込められた…その叫び声が聞こえる中ジュリアとの生活は続けられる。
ジュリアとは営み成功しなかったのだが、官能的な空気は物心と同時に気づいたという、この語り手は普通の人間?より余程淫乱なのではないだろうか。
でも語り手本人的には転換するものが欲しかったところに、ローマで祖父の枢機卿の体調悪化が伝えられてそこへ向かう。枢機卿の最後の言葉は…

 そして、魂を差しだそうというとき、祖父は一瞬状態を起し、幻想を見ているような瞳を見開き、腕を揺すって突然羽ばたいた。
「鷹だ!」彼はそう叫んだ、「鷹だ…」
(p380)


(2021 01/27)

楽しい寓話と静かな観察


第7章読み終え。

 現実的なものと幻想的なものが永久に別々の整理箱に分類されはじめた時代がその最後の突然的爆発で、豊かな幻影の詩の旗をはためかせる時代に送る困惑気味の別れを象徴していたのである。
(p385)


中世と近代が入り混じるルネサンスという時代の情景。果たして、(四百年も生きた語り手とは別の)同時代人はどのようにそれを見ていたのか。とりあえずここでは、アリオストがその幻影によって注目されていたことが語られる。

 王として愛人としての彼の燃えあがるような天分に対抗する存在に課せられた気紛れな運命のせいで彼は庶子であり、つまはじきであり、罰当りな司祭であったとはいえ-イッポリトは私が決してなりえぬものの愉しい寓話であったからである。
(p398)


イッポリトの最期。海賊バルバロッサに襲われるジュリア・ゴンサーガ、それを助けようとしてイッポリトも向かうが、ジュリアに恋してしまう。その館の周りの沼沢地でマラリアに、そして娼館での病も加わり若くして亡くなる。毒ももられていたのか、執事がその疑いで拷問にかけられた叫び声を上げる中(この作品には常になんらかのこういった叫び声が背後でしているような気がする)で。
そんなイッポリトに語り手は深く愛着を持っていた。この作品にはこのような、他人に理解を得たいとする、また他人を理解したいという語り手の静かな観察が多く語られる。前の祖父の死の場面もそう。そして次の第8章では、再びまみえる皇帝と、そのような場面が語られる。
(2020 01/30)

誰の子だ?

 まるで小さな飢えた怪物のごとく腹の中で成長する子供をその豪華な刺繍のルッコの下に隠しているかのような彼、ボマルツォ公を? 読者には彼が理解できるだろうか、彼を理解できる者がいるだろうか? 私にはもはや彼が理解できない。しかし、それでもなお、その信じ難い手順は彷徨う論理の特徴を具えつつも進展していったのである。
(p409)


自分はジュリアと関係できないのに、マエルバーレの妻は既に子供を宿している。自分はボマルツォ公を継ぎ、その栄誉を汚さないように、しかもオルシーニ家を存続する為には…とアレッサンドロ公の婚儀の最中のフィレンツェで歩き回りながら、彼、ボマルツォ公は考える。そして、「子供」…
その計画とは、マエルバーレをジュリアに接近させ挑発させて妊娠(つまりマエルバーレの子供…オルシーニ家は存続する)させ、それを自分の子に公には見せかけて、その後マエルバーレを殺す…というもの。マキャベリとか持ち出してこの時代にはそういう企みは日常茶飯事だったとは言っているけれど、おぞましい計画ではある。が、何より驚きなのは、「私にはもはや彼が理解できない」って…
…という計画が進展し、ジュリアとマエルバーレが策略(元々ジュリアを先に見つけたのはマエルバーレなのだけれど)によって関係もった直後、語り手ボマルツォ公が現れ、嫉妬とか憎しみとかでなんと今までできなかった事をやってしまう…やればできる…
ちょっと後ろを見てみたら、マエルバーレの命は数ページももたない…
(2021 01/31)

遠ざかる鏡に手を伸ばす孤独な姿

 心を占める空白がことさら大きなものとなり、私の心の裡から飛び出し、私全体を包みこんだがまるで氷の沈黙が支配する孤立した巨大な鏡の中にいるかのようであった。やがて、そのような孤立した不動の中、いくつかの朧気な人影がゆっくりと描かれはじめた。
(p423)


今日読んだ箇所で、多くの人が亡くなった。前を受けてマエルバーレが毒殺されたのを皮切りに、ここまでなんとか生きてきた語り手の守り神のような祖母、そしてフィレンツェではアレッサンドロ公をロレンツィーノが殺害する。チェチーリア(マエルバーレの妻)はニッコロを、ジュリアはオラッツィオ(結局、どっちの子だ?)を産み、シジスモンドは襲われ眼窩をえぐられる。チェチーリアは盲目となり、語り手に追われローマの親類の屋敷へ向かう(そこでミケランジェロとも過ごすことになる)。シジスモンド以外(?)はほとんど語り手が関わっている。そして、彼は不死である。

 信じられないほど遠く離れた時の中で、失われた過去を私のように取り戻そうとする人間というのは深海の秘密の場所に真珠貝の素晴らしい隠れ家を発見し、それを一つ一つ見せることのできる特権を手にした漁師と同じである。
(p439)


何か何処かで、これと似たような例えを聞いたような…
(2021 02/01)

二つ目の課題(不死)進捗


第8章残り。
今回は特に引用しないけど、語り手の蒐集品の整理のためにボマルツォの館に秘密の通路を作る。語り手の部屋とシルヴィオの部屋。シルヴィオはいよいよ錬金術に没頭し始める。小説の最初の方で触れた(覚えてましたよ…)マエルバーレの庶子フルヴィオ・オルシーニが整理の助手として招かれる。

とやっている中、ロレンツィーノが母親と共に極秘に身を寄せる。アレッサンドロ公殺害の後の足取りを聞いてから、ジャンバティスッタを護衛につけて休ませたのだが、どこからか秘密の通路から追手が現れないか心配なロレンツィーノは、いろいろ探っている時にあのバネ仕掛けの扉を見つけ、恐怖心に駆られてすぐ出発してしまう(ジャンバティスッタも何故か自分から同行を申し出る、二時間という間に何があったのか?)。
その扉の向こうには、当然木乃伊が安置されていて、木乃伊の下には羊皮紙があった。それこそパラケルススから教えてもらった不死についての手紙だった。その手紙については次の章の話となるが、一方、木乃伊の方は、なんかの聖人として館の教会?に展示されて、隣の領主ムニャーノ公と今はそこに暮らしているパンタジレーアが見にくる…というシーンで第8章は終わる。

(今もこの骸骨はボマルツォの館で展示してある、という。現地を訪れたムヒカ=ライネスがそう書いているのだから、きっと今も見られるのだろう…行く?)
(2021 02/02)

p477で出てくる『ラサリーリョ・デ・トルメス』のモデルと言われるディエゴ・ウルタード・デ・メンドーサって、p265で出てきたメンドーサと同一人物?違う?

 私の目は涙に曇った。そしてジャンバティスッタのことを思った。宮殿のガラスが反射する水面を流れていく汚物の中、明るい色の髪を花のように広げて漂う彼の姿が見えたが、それはテーヴェレ川を漂う兄ジローラモを見たときと同じであった。
(p478)


ロレンツィーノと彼について行ったジャンバティスッタの暗殺。ヴェネツィアで殺されたそのイメージに、ジローラモや、以前のヴェネツィア滞在で船からふざけてジャンバティスッタを突き落としたことがオーバークロスする。不死というのは、こういう死の情景の万華鏡が重なり合いながら永遠に続く、ということ、その時、一つの死は固有の意味を失う。

 戦いは早く死ぬには最善の方法であった、しかし豊かになって、何枚かの黄金の皿や透きとおる宝石の首飾りをもって村に帰る一つの方法であり、単調さを打ち破り、物言わぬ家畜や敷物に閉じこめられた生活から逃れだすための手段でもあった。
(p482)


村人たちについて。これはボマルツォ公側が書いた回想の一部であり、村人から見ればどうなのか、という問題は残るものの、ルネサンス期の農村はこういうものだったのかもしれない…
というわけで、語り手一行は戦いに向かう。次の章のメッスの戦いに向けて、物語も動き始める。そこは明日以降…
(2021 02/05)

孤独な蛙は樹上に憧れる

 こんな生活は彼らの生活なのであり、私のではない。片隅から私の思いを監視するような甲冑は彼らに属すべきものだったのだ。私は役者のように借りものの生を生きているのだ。
(p491)


メッスからフランドルでの秋雨の中の惨めな戦い。ここの「彼ら」はジローラモやマエルバーレのこと。彼らを排除したのに、自分は彼らの代役でしかない。

 彼らの態度には排斥や拒絶を示すようなところはまったく無かった、敵意のある言葉も口にしなかったが、まるで私は隠謀家たちの強固な円の中には属していないようであった、まるで私は彼らの密かな感情を共有できないかのようであった。
(p496)


ここの「彼ら」は、ボマルツォに帰ってきてからの家族、特にジュリアやチェチーリアと子供のこと。語り手も四十歳、オルシーニ家の歴史と、解き始めている現在の家族をこの瞬間を永遠にしようと、そうした壁画を依頼する。最初はミケランジェロに依頼したが、弟子の芸術家ヤコポを推薦された。ここで、この芸術家とともにやってきたシチリア出身の若い兄弟の助手、特に兄のザノッピに惹かれる。

 私の心に、青春時代の不穏な熱が甦ったのであり、その例外的な密かな火はその他の知覚を抱きこみ融かしながら、周囲にあるすべてのものを消しさる唯一のものの前に私を燃えあがらせ動揺させたまま一人置きざりにした。
(p499)


天井その他に描くため、足場を高く複雑に組み立て、その上でヤコポと助手兄弟が往き来する。一回は上に登ってみた語り手だったが、恐怖で硬直し降ろされるはめに…

 そのとき以来、私は埃っぽい石からなる下の世界に留まり、ゆったりとした灰色と緑のルッコを着て地上を往き来し、迷宮のような枝ぶりの上部を眺めてはその混乱した森の頂上で口を開け呟いている軽やかな人影を探したのだが、そんな私の姿は遙かな樹々の梢に風の精や浮動する生物の動きを窺う愚かな醜い蛙のようであった。
(p504)


ここのシーン、映画監督になって撮ってみたいような。
…残り百ページ切った…
(2021 02/06)

岩の森、あるいは海


第9章最後と第10章始め。
ジュリアの死を受けて、城内部の壁画案件は中座し、いよいよボマルツォの怪物の森計画が動き出す。

 藪のあちこちからボマルツォの岩が姿を現していたが、まるでざわめく枝の波に沈む遭難者たちのようであった。それらの灰色の岩はその形の中に私の夢を具現化していた。
(p510)


ザノッピに語り手自身の物語を語っていくと、ザノッピは「今やっているような一族の物語ではなく、公爵自身の物語を作ってくれ、という命令を下すのではないかと思っています」と言う。それが語り手には福音となる。

 それは私の弁明、私の説明、例外的な偉業、ヴィチーノ・オルシーニがあの足とあの傴僂を引きずるためにあとに続くのがひどく骨の折れる一族、そして彼をその華々しい暴力で辱める一族の長い列の中に永遠に位置づける霊感を得た天才の業績となろう。
(p515)


今まで内に向かって流れこんでいた語り手のいろいろな心情が、今度は外側に向かって放射する。それがこの場合は、森の岩を刻んだ怪物となるわけだが。
次から第10章。

 その掘り返された景色は、少年の頃の私を驚かせ、若い頃には私が愛撫した百姓女の熱い肌を、そして、特に私を戸惑わせた具体例をあげるなら、フルヴィオ・オルシーニの若い母親、私の弟マエルバーレの愛人の村娘の腋の下のような、女の体の滑らかさの中に突如現れる腋の下を私に思いださせるのであった。
(p518)


地形を調べ、古層を調査するため、木や岩を掘り起こす。その光景から腋下が思い浮かんだのかもしれないが、掘り起こす光景は自身の記憶の掘り起こしも自動で行って、語り手の記憶の古層と連合した。
とうとう語り手とザノッピは、師匠ヤコポを追い出してしまう…ますます怪しくなってくるこの関係…
(2021 02/08)

伝記作家あれこれ


今日読んだところでは、モラヴィアがボマルツォの岩の庭園を見て「遊園地のようである」と感じたという記述があって…

 伝記作家は偶然の気紛れが残した辻褄のあわない、脈略のない記録を使いながら良心的にその人物のパズルを組み合わせていくが、その人物の親交、そして本質的な特徴や記録は往々にして逃げていくものである。伝記作家は一種の測りしれない親近感が自分を結びつける人間を博学と注釈の網で捕らえたと信じるが、それは難破船のいびつな残骸を掻き集めているに過ぎないのだ。
(p537)


もちろん実際にこの「回想記」書いているのは、ヴィチーノ・オルシーニではなく、作家ムヒカ=ライネスであるわけなのだが…ということで、この作品自体の成り立ちを作家が垣間見せているという気にもなる。
(2021 02/09)

レバントへ


第10章読み終わり。息子オラッツィオとニッコロの戦場からの帰還と出発、シルヴィオの死、ザノッピ(この兄弟、一回一緒に逃亡し、兄だけがカール5世の刀持って戻ってきた)の殺害(あの木乃伊の部屋にまだ辛うじて生きている彼を閉じ込める)、シジスモンドとパンタジレーアの結婚、仮面舞踏会と鏡の悪魔と豹ジェムに襲われ重傷を負う語り手、クレメンティーニという資産家の娘(40代)との再婚、そしてまた戻ってきていたオラッツィオとニッコロの再出発と語り手自身の戦場行き、あたかもレバントの戦い間近。
と様々な中、悪魔と豹の場面付近から二つ。

 本当に悪魔を見る者には分るのだ、悪魔には角もない、そんなに黒くもないことが…
(p555)


屋敷の仮面舞踏会に出るために小姓と着替えている時、語り手は鏡に「何か」が映っているのを見る。小姓には見えない。その時蘇ってきたのが、ヴェネツィア行きの直前、居酒屋で学生たちと話していた時に聞いた『隠遁者の歌』(p303)。
その回復期。

 ときおりテラスに足を向け、欄干に凭れて庭園にある私の奇異な作品を見つめるのであった。そうやって自然を犯し、捩じまげてあの素晴らしい岩を奇怪な像に変えることで結局私は何をしたのだろう? 私の罪はどんな罪なのであろう? 私の憎むべき人生の行為がいったい何が正当化しうるのか? その永遠の宣言に値する何を私は誇らねばならないのか? あそこに告発者たちが、偉大な証人たちがいる。私自身が彼らをそこに置いたのであり、支配力を行使してきたのだ。ところがいまや私は彼らの家臣であった。そして彼らは永久にそこにいることになるのだ。
(p556)


自分のしたこと、印象、それが自身の罪の証人となって反転するのは、いつの頃からか。別に怪物の岩の森はほとんどの人は持ってはいないのだが、そうした心象風景は誰しもあるのではないだろうか。そしてそれは死期が近づくに連れ大きくなっていき、やがて視界の大半を占めるようになる。
(2021 02/11)

レバント海戦で出会う人々

 失くした領地のこと、アクロポリスの城のこと、澄みわたるエーゲの泡の中、怠惰な人魚たちの集まりのごとく陽に向かって伸びをする愛する群島のことを話すとき、ジャコモは突然中世の人間に変るのであった。
(p573)


ナクソス公についての文章。泡とか背伸びする群島とか巧みな比喩。この他にレバント行きには、監督するコロンナ家(オルシーニ家とは宿敵同士)のマルカントニオ、スペインからドン・ファン、語り手一行は、彼の或いはマエルバーレの息子オラッツィオ、マエルバーレとチェチーリアとの息子ニッコロ、黒人小姓のアントネッロ、そしてユダヤ人のサムエルがいた。サムエルはレコンキスタ後のスペインを追われ、パレスチナへ向かう船に乗っていてオラッツィオが所属するの船団に拿捕され、奴隷としてそこにいた。

 しかし、メッシーナで襲われたとき私の血が彼の胴着に、おそらくはその指に、顔に飛び散ったと思うと、私は血管が熱くなり、体が震える。
(p577)


メッシーナで滞留中、喧嘩の仲裁に入って逆に襲われた語り手一行。語り手は刺されたのだが、そこを救ったのがスペイン人の枢機卿の近習だという若者。語り手はアリオストの写本を彼に贈り、彼はガルシラーソ・デ・ラ・ベガの作品集を代わりに語り手に贈る。このベガという詩人も気になるのだが、この若者、誰だろう。これがひょっとして昔ベッポーとともに語り手の近習だったイグナシオ(彼が最終章このレバントの戦いで再登場するのは予告されていた)?…と期待していたら、もっと意外で感動的な名前、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ…p577の文は語り手どうのこうのを超えて、作者ムヒカ=ライネス自身の声だろう。
そして語り手はガルシラーソの詩を読む。

 その旅の思い出はガルシラーソの思い出と混じる。今日でも、その旅のことを思い返すと、ガルシラーソ、オラッツィオ・オルシーニそして私自身の三つのイメージが重なりあい、溶けあって唯一のイメージとなるのであり、三者を切り離すことはできなくなってしまう。
(p578-579)
 実際誰も愛さなかったのではないか、自分自身の他は? ボマルツォに寄せる私の愛は私を取り囲む空気への愛なのか、そして私は自らの中にそれが満ちているということだけで愛しているのであろうか?
(p579)


イグナシオはレバントの海戦直前に現れ、祝福した(ように見えた)、そして語り手はそれを受けてドン・ファンのロザリオの十字架とベンヴェヌートの指輪に口づけた。それは物語の冒頭と最後を示すものにもなる。
レバントの海戦。一応はキリスト教側の勝利となったのだが、語り手の目の前でオラッツィオが殺される。

 そして私の心を捉え、不断の吐き気の誘因となった空虚感は私に自らの内側を見つめる、ちょうど残忍で淋しげな怪物どもの住む洞窟の秘密を見るように自分の内部を見つめるようにしむけたのである。侘びしくさせられるような思いであった。そのときまで、自己中心的な考え、不信感の固い殻がそんな思いから私を救っていたのだが、オラッツィオの死はその防護柵を崩してしまった。
(p589)

不死の薬と結末

イタリアに戻ってきて、凱旋あらゆる催しには参加せず(妻クレリアはそういったものに出たかったらしいが)、不死の薬と怪物の森制作のみに向かう。サムエルの父、先にパレスチナに着いていたが息子を探していてレバントからの帰りに合流したソロモンが、不死の薬の手紙解読に取り組むことになった(最初は断ったが)。クレリアが意外なことをほのめかす。シルヴィオが死の直前、ボルツィア(ジャンバティスッタと双子で、シルヴィオの妻になった)に、自分とボマルツォ公がマエルバーレの死に絡んでいると手紙を送ったという。ニッコロとの関係がオラッツィオの死の前とは少しずつ変化していった…

不死の薬がついに出来上がり、数日後怪物の森も完成する。その間に以前地下に作った部屋にあった語り手とシルヴィオの錬金術道具や珍品や芸術品が火災(放火らしい)で焼失。その中には不死の薬の手紙もあった。

最後の場面、語り手は怪物の森の例の口から地下に降り、そこで不死の薬を飲む…しかし、そこで語り手は死んでしまう。ニッコロが不死の薬の中に毒薬を入れたのだ(ニッコロの視点で物語書き換えたらどうだろう)。でも、語り手にとっては不死も死ももはやどちらも同じだろう。静かに死んでいく…

…っと、待った。語り手にとってはどちらでもいいのかもしれないけれど、読者にとっては、600ページもこの本と付き合ってきた読者にとっては、よくない。ロートレックやフロイトや共産圏を知る語り手はどこへ行ったのか。

 なぜなら、思いだす人間は死んではいないからだが-私の記憶の中でヴィチーノ・オルシーニの遠い人生を思いだすという特権を享受したのである。少しまえ、三年まえ、詩人と画家といっしょに三人でボマルツォに出かけたとき、眩惑が失われたイメージと感情を一纏めにして私に返してくれたのだ。別の半球にある広く騒々しい都市で、ボマルツォの村とは掛け離れた、そのあまり別の星に属しているとでも言えそうな都市で、私はひどく古く執拗な縺れを解きほぐすにつれて自らの物語を救い、日日、逐一、私の過去の人生を、未だ私の中で生きている人生を取り戻していたのである。
(p606)


説明になっている? とにかく実際に作者一行がボマルツォ庭園に来た時(1958年)、デジャブに捕われ、初めてなのに彫刻の場所を知っていたり、ヴィチーノ・オルシーニの生涯を話し出したりしたという(本当ですか?)。

最後に作者紹介と他の作品

ムヒカ=ライネスのムヒカは父系(バスク)の姓、ライネスは母系(アンダルシア)の姓だという。同じ名前のマヌエルという兄が早逝したこともあって、母に溺愛されいろいろな話や教育を受けたという(この辺ヴィチーノと似ている)。その中には弟と一緒にパリでの個人教育があって本作品の古武具や地下牢にもパリのそれらが反映されているという。

 古美術の復元作業にも似た、ほとんどアカデミックと形容してもいいほどの丹念な作業を通じて、徐々に、しかも細密に、人物像を造形してゆく筆法こそ、ジャンルの相違を越えて、まぎれもなく作家ムヒカ=ライネスの小説作法となったのである。
(p617)


他の作品…
「ミゲル・カネ」、「雄鶏のアニセトの生涯」、「雛鳥のアナスタシオの生涯」…19世紀アルゼンチン詩人の三部作
「ここに彼らは生きた」、「神秘なブエノスアイレス」…連作短編集。ブエノスアイレスサガ。
「偶像たち」、「屋敷」、「旅客たち」、「「天国亭」への招待客」(この後、ムヒカ=ライネスがコルドバ州にそういう名前の邸宅を作るが、それとは無関係、らしい。
「ボマルツォ」(原題は位置単語のみ、ヒナステラによってカンタータやオペラにもされたという)
「一角獣」(12世紀フランスが舞台。これも不死がテーマ)
「王室年代記」(未来の公子が王室年代記のテーマを出す?という12の短編集)
「奇跡と憂愁について」(アメリカ史(ラテン?合衆国?)の欠落を埋めると称する。ガルシア=マルケスの影響を作者自身が認める)
一番読んでみたいのはもちろん?最後のものだが、この人のアルゼンチンのリアリズム系というのも読んでみたい気もする。
(2021 02/13)

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