「善悪の彼岸」 フリードリヒ・ニーチェ
中山元 訳 光文社古典新訳文庫 光文社
ニーチェの時代
さて、「努力」(コナトゥス)自己保存が事物の本質だとスピノザはしたのだが、これを評価しつつ変形したのがニーチェ。彼は力の放出こそが本質だと考えた。これが「力への意志」ということになるのかな。第17断片ではフロイトの「エス」の元ネタ?も出てくるし、第20断片では言語が思考を決める?というサピア=ウォーフ仮説のようなことも書いている。現代心理学等を経た今から見ると、意外に?ニーチェってまっとうなこと言ってるなあ、という印象。
ニーチェから「現代」が始まると言えるのかもなあ。
(2014 10/12)
主語の網
「善悪の彼岸」第3篇より。
この間読んだ社会心理学の本を思い出す(何だろう?)。この主体の解体が現代を開いた…のかな?
(2014 10/18)
第4篇より
第4篇は「箴言と間奏曲」という断片がさらに短くなって2、3行のもの。なんだかこの篇の後半になってきて半分くらいが女性の話になってきているのは何故かなあ。内容はにやりとできるのと、そうなのかな?と考えさせられるのと、なんだかわからないのが3等分くらい。
ニーチェにとって真理は女性(ドイツ語で女性名詞)であり、真理を無理やり?解明するのは女性の衣服を脱がすみたいなもので、それより愛を捧げるべきだという考えだから、この第4篇での話もそちらも含んでいる・・・のか、ではないのか。
(2014 10/19)
でっちあげのダークマター
体験の大部分をでっちあげるのである。ある出来事を観察するというのは、その出来事を「創造する」者としてでしかない。これらのことはあることを教えている。ずっと昔から、わたしたちは根本的に嘘をつくことになれているということだ。
(p220)
それが物語る、証言するということの本質だと思う。あとは程度の大小(笑)。写真だって動画だって嘘はつける。
あと第196断片では、ニーチェはダークマターの予言さえしている(笑)。物理学者あるいは天文学者で気づいた人いたかな?
(いるんだろうなあ…)
(2014 10/20)
ヨーロッパの仏教
民主主義は人間社会の堕落した姿と説くニーチェ。ニーチェがこれを書くにあたって何を狙っていたのかはよくわからないけれど、どっちがより納得できるかは難しい判断になる。
別のところではヨーロッパに広まっている仏教だとも言っている。ニーチェの言っている仏教というのは大乗仏教の方かな。たぶん。
そこで、「新たな哲学者」登場と話は進むのだが、とりあえずそれがヒトラーではないことは確かだろう。ニーチェ自身の考えでは。
(2014 10/22)
サムライはどこへ行くのか…
かなり長くなってしまいましたが、面白かったのでつい…
人類初期の攻撃的なストレートな「力への意志」が、時を経るにつれカモフラージュ化してくる。でも重要さの順番から言えば、力への意志→高度な文化なんだよね。そこをうまく通らないと、残酷さをどう処理していいかわからなくなり…もうフロイトは近くにいる。
後の文は、内容的にどうこうよりも、リストアップ芸を楽しむ箇所。トリスタンとイゾルデなんてところはヴァーグナーに心酔しそして決別したニーチェの愛憎こもった皮肉なのだろう…それより「今日の日本人」が気になる。ニーチェがこれ書いているのは、日本で言えば明治初期なんだけど…リアルタイムで追っていたわけでもないだろうから、まあサムライの切腹辺りを念頭に置いていたのかな。
キルケは「ユリシーズ」でも出てきた。あの章もニーチェ的に読めばまた違った何かが…
(2014 10/26)
ニーチェも終盤
なんだけど…
国民国家なんて最近作られた虚構だ、と言っておきながら、イギリス人は…、フランス人は…、とか言ってるし、決別したワーグナー(まあ、この表記で)についても今回は評価しているみたいだし…
なかなか真意がつかめない人である(笑)。
残りは第9章。
(2014 10/30)
思想の午後
ニーチェは(ほぼ)読み終わり。最後はなんだか名文メドレーみたいで(笑)、また機会が作れたら振り返ることにして、最後の断片から。
アフォリズム形式が(パスカルとかのフランスモラリストがそうだったように)体系化された記述より真実を伝えうるというのはニーチェの確信だったらしい。
ところで、引用しときたい断片
274、277、285、289…この断片くらいかな。とりあえず。
あとで。
(2014 10/31)
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