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「ポイント・オメガ」 ドン・デリーロ

都甲幸治 訳  水声社 フィクションの楽しみ

政治的に振り回され、砂漠の真ん中の家に一人住む老境の科学者と、若手の映画監督の対話、の中編。
それを挟むように、ヒッチコックの「サイコ」を二十四時間に引き延ばした作品、そしてこの作品をずっと見ている「彼」の部が「匿名の人物」として、小説の最初と最後に配される。この二十四時間版「サイコ」は、実際にニューヨーク他の美術館で上映されたダグラス・ゴードンの作品。

 元の映画の上演時間が二十四時間にまで引き延ばされていた。彼が見ていたのは純粋な映画、純粋な時間だった。ゴシック映画のあからさまな恐怖は、時間の中に溶け込んでいた。彼はどれだけここに立っていたら、何週間、あるいは何ヵ月立っていたら、この映画の時間の流れに一体化できるだろう。あるいは、もう一体化しはじめているのだろうか。
(p13)


挟まれた主要部は、砂漠の家で、イラク戦争の諜報機関?にいて今は隠遁しているエルスターと、彼についての映画を撮りたいという語り手の対話(沈黙含む)。この二人はこの「匿名の人物」部で十分くらい見る二人連れという役で出てきている。

 人生を通してずっとあの子がいるんだ。歩道の割れ目の上は歩かない。別に迷信なんかじゃなくて、試練として、訓練としてまだそうしてる。他には? 親指の爪の横の皮を噛む。いつも右の親指だ。まだそうしてる。死んだ皮の部分。そうやって自分が誰だか確かめてる。
(p56)


あの子は子供の頃の自分。

 物質とは自意識を失いたがるものだ。我々の知性や感情は物質が変化してできた。そんなものはもうやめにするころだ。こうしたことに我々は今、突き動かされてるんだよ。
(p66)


最初はずっとこの二人での進行かと思いきや、彼の娘であるジェシーが現れて三人となる。ジェシーはなんかある男から逃げている(あるいは隔離するよう母親から言われている)
p95では寝ているジェシーの部屋をそっと見る語り手の姿が描かれている。しかし、その後すぐにジェシーは忽然と消えてしまう。先のp95に対応する場面がこちら。

 その夜私は眠れなかった。次々と夢を見た…(中略)…彼女はジェシーだったが、同時にありえないほど表情豊かだった。私が彼女を自分のなかに導き入れているあいだも、ジェシーは自分の外に漂い出ているように見えた。私はそこにいて興奮していたが、開いたドアのそばに立っているもう一人の自分には、私の姿はほとんど見えなかった。
(p121)


p95の時にも実際には語り手はジェシーのそばにいたのではとか、ここでは語り手の精神が分裂して存在しているとか。

 オメガ・ポイントは今ここで縮小し、体に突き刺さるナイフの先端になる。人類の巨大な主題は小さくなり、この場の悲しみ、一つの体となり、どこかにある、あるいはない。
(p125)


結局ジェシーは見つからぬまま、エルスターは虚弱して、語り手によって元妻、ジェシーの母親のところへ連れて行かれる。エルスターの意識とともにあった物質と意識の融合点であるオメガ・ポイントも彼とともに小さくなっていく。

と、語り手とエルスターの乗った車が大きな街に近づいていくところで主要部は終わり、「匿名の人物」部に戻ってくる。日付がついていて、冒頭が九月三日、この結末が九月四日…ということは、こちらは全く連続していて、主要部が時間的に間に挟まっている展開ではないということだ。これは「彼」かあるいは読者が、何かの夢でも見ていたのか、と感じさせる。

 何であれスクリーンで起こっていることから何百キロも離れたところに立っているのだ、と彼女は言った。
(p137)


この結末の「匿名の人物」部でも焦点化される人物が現れる。もちろん「サイコ」の上映場所からは離れているけれど、他にもどこからかも離れているように思える。

 あるいは映画が彼について深く考えているのだろうか? まるで漏れ出した脳髄の液のように、彼のなかを流れていきながら。
(p140)


 彼は言った。「自分が別の人生を生きていることを想像できる?」
「そんなの簡単すぎるでしょ。何か他のことを訊いて」
(p142)


わかるだろうか。冒頭の「匿名の人物」で、エルスターと若い映画製作者が出てきたのと対になって、ここではジェシーが現れているのだ。3ページ後にエルスターが語ったように唇の動きを見て言うことがわかる、という謎解きがされる。

自分ではないもう一つの場所に、自分の意識を置くことができる、この時既にオメガ・ポイントに達しているのではないか…結構難解でついていけないかと思ったけれど、全くそういうことはなく、実はチャーミングな作品ではないか。
(2020 12/06)

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